第5章 「小麦キャンペーン始まる」と「あとがき」

※ネット上の情報を繋いでいるため、書籍と内容が全て一致していないことをご了承下さい。

・強調したい部分は赤字
・訳注はオレンジで示します
・写真は「食卓のかげの星条旗」から私が挿入したものです

小麦キャンペーン始まる

 

大阪国際見本市の成功

 アメリカの小麦市場開拓事業は、「もうかりまっか」の商都・大阪ではなばなしく幕を開けた。昭和31年4月8日、大阪国際見本市が、世界21カ国の参加を得てオープンしたのである。これはパリの国際見本市連盟の公認を受けた東洋で初めての見本市で、総費用は3億5000万円にのぼるとも言われた。開会式には東京からアリソン駐日アメリカ大使も駆けつけている。
この会場の一画に、パンやクッキー、ビスケットなどの小麦製品をうず高く積み上げ、「おいしい栄養食アラーとパンをお土産にお持ち帰り下さいーー無料」と書いた看板をかかげているオレゴン小麦栽培連盟の展示コーナーがあった。この前年に来日したバウム氏は、ちょうど東京に準備にきていたアメリカ商務省の担当官から、この世紀の大展示会の開催を知らされていた。

この時、バウム氏は、「この祭典こそ、対日キャンペーンのデビューを飾る舞台にふさわしい」と心に決めていたのである。

この見本会場には、バウム氏に替わって、彼の後輩の市場アナリストである。ジョー・スピルータ氏が、開催の2か月前から派遣されていた。スピルータ氏はこの直後に、オレゴン小麦栽培者連盟東京事務所の初代駐日代表となる人物である。バウム氏もオレゴンの小作農民たちも、この見本市のなりゆきをかたずを飲んで見守っていた。

取材先のオレゴン州ペンドルトンで見せてもらった当時の連盟機関紙「オレゴン農民新聞」はこう報じている。

ー大成功をおさめた大阪見本市ー
オレゴン小麦栽培者連盟はここに遂に、全く新しい海外市場開拓に踏み入った。
アメリカ小麦の展示は大変な人気を集め、当連盟が用意した小麦製品を試食した日本人の数は数万人に上った。特に4月15日の日曜日は、無料の試食品をもらおうと殺到する観客を整理するために、100人もの警官が出動する有様であった。展示場では、パン焼きの実演も行われ、白衣をまとった3人の日本人技術者が連日、観客の前でロールパンや菓子パン、そしてホットケーキを焼きあげて見せた。

アラーの展示コーナーでは、5人の栄養士が朝から晩までつきっきりで、この新しい栄養食アラーを使った調理演習を行った。この反応からすれば、日本政府の制限さえなくなれば、アラーの市場拡大は確実にできると思わせるものであった。

こうして当連盟の展示場には、我々が当初予想した数字の倍以上も観客が群がった。この手ごたえは、日本こそ我々の小麦の最も有望な新市場と確信させるに十分なものであった。
大阪見本市が成功したと言う知らせを、バウム氏はオレゴン州でなく、ワシントンで聞いた。この時、彼は初期事業計画の最終承認を求めてアメリカ農務省を訪れていた。

「第一弾として打ち上げた観測気球アドバルーンは、大阪の空に高々と舞い上がった」

バウム氏の報告にアメリカ農務省の関係者も意を強くしたに違いない。こうして、国際見本市は閉幕の4日後の4月26日、オレゴン小麦栽培者連盟を代表を代表するリチャード・バウム氏はアメリカ農務省と事業契約の調印を行った。さし当たり初年度分として40万ドル(当時の1億4400万円)の使用が認められた。

バウム氏は、即座に東京にとんだ。アタッシュケースには、農務省から委託された40万ドルのPL480資金が詰まっていた。
5か月ぶりに訪れた東京にはもう何の障壁もなかった。各団体との事業契約が立て続けに結ばれてゆく。

昭和31年5月18日(1956年)、バウム氏は日本食生活協会(厚生省所管)と6840万円でキッチンカーの第一事業契約に調印する。あの松谷女史が見せてくれた写真はこの時移されたものであった。いまあらためて見直すと、握手するバウム氏らの背後に両者の橋渡し役となった大磯敏雄栄養課長のにこやかな顔もある。そしてその隣には、大阪国債見本市を現場でとりしきったばかりのジョー・スピルター氏も立っていた。
つづけてその一週間後の5月25日には、全国食生活改善協会(農林省所管)との間に、3882万円製パン技術者講習会、2244万円で生活改良普及員研修を行う旨の事業契約が締結された。こうしてアメリカ余剰小麦の販売代金は、アメリカ小麦の売り込み活動費に化けて行くのである。

すでに彼らの対日活動は、オレゴン州からの遠隔操作では御しきれない段階に達していた。オレゴン小麦栽培者連盟の初めての海外事務所は、こうして東京・新橋の貸しビルに誕生する。初代の駐日代表は先に述べたジョー・スピルータ氏で、彼は兼務の極東支配人として東南アジア全体にも目を配る任務を与えられたのである。」

キッチンカーの出陣式

昭和31年10月10日(1956年)、日産自動車に特別発注されていた8台のキッチンカーが出来上がり、ゆかりの場所である東京日比谷公園にたくさんの関係者を集めて出陣式が執り行われた。来賓の中には、厚生大臣と並んで大石武一農林政務次官の姿もあった。彼は、アメリカの招待視察旅行から帰ってきたばかりであった。(招待視察というより接待という表現が正しいだろう)散歩に来ていたビジネスマンたちは、このピカピカの大型バスに群れいぶかしげな視線を投げかけた。バスの胴体には「栄養改善車、財団法人・日本食生活協会」と書かれてあるだけだが、内部にはガスレンジ、調理台、流し、冷蔵庫、食器棚からレコード・プレイヤー、アンプ、放送装置まで最新設備が取り付けられていた。当時の金で1台およそ400万円もする豪華な「武器」であった。
農林省が旧来あった外郭団体をそのまま受け入れ団体にしたのとは違って、厚生省は全く新しい財団法人をつくりあげて、この日を待っていた。その日本食生活協会には、大磯栄養課長の根回しで、副会長に国策パルプの南喜一氏を引き込み、会長には政界実力者である賀屋興宣氏の名前を借りた。そして、実戦部隊としては、当時山口県庁衛生部にいた現役の栄養士・松谷満子氏(現副会長)をスカウトして体制を固めたのである。副会長の南喜一氏は、昭和36年(1961年)に発行された「栄養指導者の歩み」の中でこう書いている。
「往時の食生活は、米を中心とし、満腹感により栄養が満たされるというような、非科学的なものであったが、我々はこの誤れる習慣から解放されない限り、我ら民族の興隆は考えられない。と信じ、約5年前に、財団法人・日本食生活協会をつくり、厚生省や、アメリカの協力を得て、栄養指導車を作り、文章宣伝だけでなく、実地指導により、食生活の改善の目的を遂行することになった」
東京日比谷の公園を出陣したキッチンカーは、こうして全国の農村に忽然と姿を現すのである。運航計画は、厚生省の指導にもとづいて日本食生活協会が組み上げた。キッチンカーは各県の衛生部を通じ、市町村の保健所管内を次々とバトンタッチされていった。好評を博したこの事業は、昭和33年(1958年)に契約更新が行われ、新たなアメリカ資金を加えて車の台数も12台に増えた。オレゴン小麦栽培者連盟に続いて、当時組織されたばかりのアメリカ大豆協会もこの事業に関心を持ち、同じPL480資金から大豆の宣伝資金を捻出して、このキャンペーンに相乗りしてきた。キッチンカーの調理献立に大豆料理も姿を見せた。

オレゴン州ペンドルトンの連盟事務所に保存されている当時の会計報告書を見ると、キッチンカーを見に来た日本人一人当たりのコスト計算までがなされていたことが分かって興味深い。
以下に、その抜粋をかかげよう。

「キッチンカー事業では、小麦と大豆を含むバランスのとれた献立をとりあげ、日本の主婦たちに、どうしたら安くて栄養のある食事を作れるかを実技で説明し、調理後は試食をさせた。同時に、小麦・大豆の栄養価値と料理法を刷り込んだパンフレットを100万部も配布した。「粉食」をスローガンとするポスターも数千枚張りつけた。
ここに興味がある事実がある。キッチンカーのコストは参加者1人当たり、何と100円にしかすぎない。たったの100円で、キッチンカーはどんな山奥や離島の主婦にまで、直接に働きかけることができるのである。かくも経済的で、効率のいい宣伝方法が他にあるであろうか。
更にここに心強いアンケート結果もある。これは、およそ5万人の参加者に調査した結果であるが,キッチンカーの講習について96%がためになったと言い、92%が自宅の食事に利用したいと述べている。キッチンカーにはもう一度来てほしいと答えた人にいたっては99%であった。」(「1957」年6月〜9月の旬間リポート」より)

オレゴン小麦栽培者連盟は、PL480資金を使って行うすべての事業について、アメリカ農務省に報告することを義務付けてられていた。

元厚生省課長の自賛 

 キッチンカーのキャンペーンは、日本の厚生省にとって、戦後の食生活改善史上に燦然と輝く世紀の大事業であった。その言わば生みの親である当時の栄養課長・大磯敏雄氏にインタビューした。氏は厚生省の”アイデア男”と呼ばれ、昭和28年から38年の長きにわたって栄養課長を勤め、局長クラスに当たる国立栄養研究所長を最後に退官していた。医学博士であるが、話しぶりはざっくばらんで、しかも饒舌であった。

 -キッチンカーは大変人気だったようですね。
「まあ、みんなビックリしたでしょうな。ごはんとみそ汁、それに漬物くらいしか食べていない時代だったからね。地元の新聞には毎日の運航予定表まで載るし、とにかく引っぱりダコでした。あの車が通過したあとは必ず八百屋が困ると言う話までありましてね。つまり、皆が皆キッチンカーで覚えた料理をその晩に作ろうとするものだから、同じ材料ばかりうれてすぐ品切れになってしまうというんですよ。
それからあれは、十河総裁の時だったが、国鉄から全国の職員の栄養改善をやってくれと頼みに来たのですよ。当時の鉄道員は農家出身が多くて、食生活は貧しかったもんです。そこで我々は国威鉄職員専用の全国巡回を特別に計画してやったら、労使双方で大喜びだったですよ。しまいには東南アジアの政府関係者が、中古を譲ってくれと言うしまつです」

ーところで、あれはアメリカの資金で始まったそうですね。(この質問は、氏の機嫌を少々損ねたようであったが・・・・)
あなたね、金は出たといううけれどね。私はアメリカに口を出させなかったんだ。何もアメリカの片棒をかついだわけじゃない。私はむしろアメリカの金をせしめて、日本のために使ったのだから、うまいことやったと思っているくらいだ。日本人の栄養改善はぜったいやらねばならなかった。そりゃバウム氏は小麦の宣伝に使ってくれとはじめは言ったよ。だけど私はね、日本人の食生活が豊かになれば、自然に小麦は食うようになるんだから、長い目で見ろと言ってやったら、バウムもオーケーと言ったですよ。だからキッチンカーはあくまで日本食生活協会が日本人のために走らせると言う形になったんで、その証拠に、あれがアメリカの金でやってるなんて気づいた人はまずいないでしょう。 だいたい宣伝と言うのは、やれ米が余ったから米を食え方式のやりかたじゃ、かえって反感を持たれるもんでね。知らぬ間に効果をあげるのが本来のプロパガンダなんですよ。
ーー日本側は経費を負担しなかったのですか。
「まあ、ほんの少しは各府県も出したし、協会でも寄付集めはやったけれど・・・・。あのブルドーザーみたいに押しの強い南喜一さんをもってしても、財界の寄付はほとんどあつまらなかったね。食品工業はまだたいして力も持っていなかったし、経団連なんかも栄養の心配までは、してくれなかった。大蔵省に予算をつけろと持って行っても、逆に『お前はうまいことアメリカから金をとってきて、いいウデしてるじゃないか。それで十分だろう』と言われるのが関の山でね」
ーーキッチンカーの果たした役割については如何ですか。
「それはもうたいへんなもんですよ。バウムたちも喜んだかもしれませんが、日本の食生活改善に果たした役割は測りかりしれませんよ。あれができたからですよ。移動図書館やら、移動診断者なんかがでてくるのは。その意味でもたいへんな先駆だったな」
ーーあの粉食キャンペーンが、今日の米離れの一因とも言われますが・・・
「すぐそれだ。だからマスコミは困るんですよ。だいたい食生活の問題は、あくまで消費者の栄養面、つまり健康の問題として発想して行くべきなんで、需要に合わせて食糧を生産するように指導するのが農林省のとるべき道なんだ。それを生産者の都合に合わせて、余った米を食べろなんてのは主客転倒もはなはだしいですよ」

これまでも厚生省と農林省の確執については幾つか紹介してきたが、この厚生省・大磯氏の発言を聞いていて、その発想の根本的違いの大きさを改めて知ったのである。

まずパン屋を育てよ

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厚生省所管のキッチンカーに続いて、農林省所管の事業も全国食生活改善協会を通じて始まった。その第一弾が製パン技術者の講習会であった。パンを普及させるには、まずパン業者を育成しなくてはならない。
当時の日本では、パンは馴じみの少ない食品であり、特に地方都市には満足なパン業者すらなかった。そこでバウム氏らは、全国から選りすぐったパン職人数十名を東京に集め、三か月間にわたってみっちりと技術指導を行わせた。

そして、その中央訓練コースを卒業した職人たちには、故郷に帰るとそこでまた人を集めてパン教室を開くことを義務づけたのである。この方式で、初めの一年だけで全国で200会場、一万人の職人がアメリカの製パン技術に触れた。中央訓練コースでは実技指導はもとより、パンの科学原理、機器の整備などの講義も行なわれ、同時に大手製粉会社やイーストエ場の見学もカリキユラムに組まれていた。中央コースの卒業生が地方でまた教室を開くこの方式は、何回となく繰り返され、パン業者の裾野は全国津々浦々に広がっていった。

パン技術の指導と並行して、パン企業の経営セミナーも聞かれた。これには日本生産性本部の協力もあった。この頃はパン産業の勃興期で、戦前からの大手と呼べるものは「木村屋」「敷島パン」そして「神戸屋」くらいなものであった。「山崎」も「第一」もまだ創業間もない中小のパッ業者にすぎなかった時代である。この当時、リチャード・バウム氏にとってパン食普及のブレイン的存在であったのが、パン科学会研究所所長の阿久津正蔵氏である。氏の証言によれば、こうしたアメリカの技術指導、経営セミナーで学んだ人物は今日の大手製パン会社の重役クラスに数限りなくいると言う。

「あの時の受講生が、いまや大会社の幹部だからね。山崎や日糧の社長も卒業生ですよ。重役や工場長を数えあげたらキリがない」阿久津氏は感慨をこめて語った。

翌32年(1957年)全国食生活改善協会は7330万円で、粉食奨励の一大広告宣伝事業をアメリカから請け負っている。この資金の一部を受けたパンの業界団体・全パン連は、全国パン祭りキャンペーンを企画し、東京では花電車を装った宣伝カーが銀座をおり歩いた。群馬県では「群馬パン号」と名づけられたセスナ機が空から、無料配布券つきの宣伝ビラをまいた。福井県では「日に一度、パンを欠かさぬ母の愛」と書かれた看板をつけた宣伝トラ″ク部隊が大パレードを行なった。

これはパン業界だけではなく、めん製品、ビスケット、マカロニの業界についても同じであった。新興の小麦食品産業が、このような全国規模の広告宣伝を、街頭行進から新聞、ラジオ、テレビまでを活用して行なったのは初めてのことであった。

リチャードーバウム氏は、消費宣伝だけがすべてだと考えていたわけではない。農林省との交渉で経験したあの苦労が頭にこびりついていたにちがいない。彼は小麦の輸入にあたって食糧庁がどれほど強い権限を持っているかを、嫌というほど思い知らされていた。バウム氏は農林省の要人をアメリカに招待することを考えた。

冒頭で紹介した大石武一農林政務次官の一行が日本を離れたのは、キッチンカーが動き出す二か月前のことである。何よりも先に、日本国内のキーになる人物をつかんでおきたかったのであろう(ビジネスにおいてこれは日常茶飯事かもしれないが、以下は賄賂ではないか)

一行の滞在費はアメリカ農務省のPL480勘定とオレゴン小麦栽培者連盟の双方から出された。この時のオレゴン農民新聞は「日本の副大臣(Vice minister)来る」と特別記事で取り上げ、一行の視察模様を紹介しながら、大石氏が「アメリカの小麦事情がよくわかってありがたく思う。日本は今後もアメリカから100万トン以上の小麦を買い続けるであろう」と語ったと報じている。

つづいて12月には、今度は厚生省の大礒敏雄氏が同様にオレゴン小麦栽培者連盟から、アメリカに招待されている。

大礒氏は、バウム氏たちが最も信頼した協力者であり、キッチンカーの功労者でもあった。一か月間の訪米期間中、各地で歓迎を受けたが、とりわけ小麦生産者の年次大会で、キッチンカーの意義について講演した時は、割れるように喝采を浴びたものだと、大礒氏はわれわれに語った。

学校給食の農村普及事業

リチャードーバウム氏が、日本ですでにスタートしている学校給食に目をつけないわけはなかった。

昭和32年7月(1957年)、彼は財団法人・全国学校給食会連合会(文部省所管)との間に、5735万円で学校給食の農村普及事業に契約調印している。まだ普及が遅れている農村部の小学校にまでパン給食を拡大させこうというのが事業の狙いであった。

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この頃、日本の学校給食は始まってからちょうど10年が過ぎようとしていた。ここでその足どりを簡単にたどっておく必要がありそうである。

戦後初めての学校給食は、昭和21年12月(1946年)、GHQの支援で東京、神奈川、千葉の学童25万人を対象に試験的に実施された。世間では、この時からマッカーサーにパン食奨励の意図があったとする見方もあるようだが、それはどうも無理がある。当時は世界的にたいへんな食糧不足であった。マッカーサー自身、「日本にもっと食糧をまわせ」と何度も本国陸軍省とやり合っており、とても深慮遠謀を考える余裕はなかった。学校給食を発案したGHQのサムズ大佐は農林、厚生、文部、大蔵の各省幹部をよび集めて、「米とみそ汁で給食はできないものか」と切り出した。この時、厚生省の伊藤次官につき添って列席した大礒敏雄氏の証言によれば、「とても学童にまわす米はない」と片柳真吉食糧庁長官が答えたという。

結局、ララ(LARA・アジア救済公認団体)委員会のローズ女史の奔走もあって、横浜の倉庫にあったララ救済物資をあてて、ともかく学校給食事業はスタートを切る。はじめ三都県の試験事業であったが、翌22年(1957年)から全国の都市部の小学校にも拡大される。しかしこれは、あくまで副食と脱脂粉乳を中心とした補完給食であった。

主食パンを含めた完全給食が大都市だけの措置として登場するのは、GHQから小麦粉が無償放出された昭和25年2月(1950年)からのことである。朝鮮戦争が勃発する寸前で、小麦が余りだしていた時であるからアメリカが余剰処理として「パン食普及」を意識したとすればこの頃であろうが確証はない。ただ、この時GHQのとった態度で気になる点はある。

アメリカの無償小麦を得てパン給食をスタートさせた文部省当局は、この完全給食を8大都市から全国の市制地にも拡大したいと考えた。しかし、この計画に対して総司令部は、「日本政府が今後ともこの完全給食を強力に推進する確約を得なければ許可しがたい(傍点-筆者)」と通告しているのである。そこで文部省は、昭和25年10月24日に「学校給食は重要な役割を果たしている。日本政府は将来これが育成に努力を払う(『学校給食十五年史』昭和37年発行)」という閣議了解をとりつけて、総司令部に回答している。

こうして、26年2月から完全給食は全国の都市部に拡大されることになるが、アメリカの小麦贈与は同年6月をもって打ち切りとなった。

もっともこの小麦は、贈与とは言ってもガリオア資金(占領地救済資金)をもとでにしたもので、のちになってツケが回ってきたものであった。たった一年で″贈与″がストップされたのは、その財源であるガリオア資金が日米講和によって根拠を失ったためであるが、実際のところ、その一年の間に38度線の風雲が小麦需給を逼迫させ、アメリカにとってこうした贈与による余剰処理を継続させる必要性がなくなっていたのである(朝鮮戦争が始まったため、兵食に小麦を回すため、余剰小麦を日本に当てる必要性が薄れたということ)

全国一斉の完全給食を始めた矢先に、その供給財源(ガリオア資金)を絶たれた文部省当局は大いに慌てた。閣議了解事項をもってGHQに約束をしている以上、いまさら給食を止めるわけにはいかない。かくして、日本政府は全額国庫負坦で小麦、ミルクを購入して給食継続をはかったのである。この時、大蔵大臣の池田勇人氏は、「給食の国庫負担は打ち切り、生活保護など別途の面で考慮すべきである」と主張して、文部大臣・天野貞祐氏と対立している。

大蔵側の意志は強く、翌27年度(1953年)からは全額国庫負担制度は、小麦粉のみに半額国庫負担をする形に変わる。このため、父兄の負担は急増し、全国で3000校・210万人の児童が給食から離れていった。教育の現場から「学校給食の危機」が叫ばれ出した昭和28年、13号台風などの風水害と稲の大凶作がつづけざまに発生した。各地にあらわれた欠食児童の救済が社会的大問題に発展する。学校給食を法制化する気運が急速に盛りあがり、米の神様・荷見安氏もその戦列に加わった。

こうして、昭和29年5月30日(1954年)、学校給食法は国会を通過し、「小麦粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されるのである。この陰に、アメリカ側からの働きかけがあったかどうかは定かでないが、学校給食法の成立をアメリカが喜んだであろうことは想像にかたくない。

あのゴードン・ボールズ氏が、「余剰小麦処理」の大統領特命を受けて東京にやってきたのは、まさに学校給食法が成立する前夜であった。この国会で文部大臣・大達茂之氏は提案理由の説明の中でこう述べている。

「わが国の現下の食糧事情から申しまして、今後国民の食生活は、粉食混合の形態に移行することが必要であると思うのでありますが、米食偏重の傾向を是正し、また粉食実施に伴う栄養摂取方法を適正にすることは、なかなか困難なことでありますので、学校給食によって幼少の時代において教育的に配慮された合理的な食事に慣れさせることが国民の食生活の改善上、最も肝要であると存じます」

いま改めてこの文章を読むと、学校給食がまさにその法の狙いどおりの役割を果たしたことに驚く。「幼少の時代から粉食に慣れさせられた」給食経験層がいまや国民の大半を占めようとしているのである。

学校給食法が制定されて間もない10月、愛知・東畑使節団はアメリカの余剰農産物の買い付け交渉に出発する。文部省当局者にとっては、彼らがどれだけの小麦贈与を引き出してくるかが最大の関心事であった。

この時アメリカのハラは決っていた。無料の小麦というエサをぶらさげて、太平洋の中から「粉食に慣れようとする幼少」の胃袋を、釣り上げようと考えていたのである。その証拠にアメリカは贈与する小麦と脱脂粉乳は学校給食に使用することとまず限定し、次のような約束を日本側から取り付けている。

(1)アメリカは給食用小麦を四か年間に、四分の一づつ漸減して贈与する(初年次10万トン、四年次2万5000トン)。

(2)日本政府は、4年間にわたり年間18万5000トンレペルの小麦給食を維持すること。(『現物贈与の細目取扱に関する日米交換公文』昭和31年2月10日)

つまり、アメリカは無償供与をだんだん減らしてゆくが、日本は給食の規模を縮小してはならないというのである。それでも文部省、大蔵省は大喜びであった。事実、この贈与受け入れが始まった昭和31年度から(1956年)、半額国庫負担の時代に終止符が打たれ、政府補助は小麦100グラム当り1円という安上がりの学校給食となっている。

リチャードーバウム氏らの小麦市場開拓事業はこうした時代にスタートを切った。学校給食については、いわばすでにレールが敷かれていたのである。彼らはこの既定路線を補完強化することだけを考えればよかった。

昭和32年7月(1957年)、オレゴン小麦栽培者連盟は全国学校給食会連合会と契約して、学校給食の農村普及事業を開始させた。

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すでに学校給食法が制定されてはいたが、これは義務法ではなくあくまで奨励法であったために、給食実施校は都市部に限られていた。バウム氏は、普及の遅れている農山村にまで学校給食を広めようと、文部省に話をもちかけたのであった。文部省当局にとっては願ってもない話であった。

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当時、学校給食係長であった河村寛氏(現日本学校給食会総務課長)は「最も遅れている農村児童の栄養水準こそ高めなければならなかったのだから、アメリカの話に飛びついたのです」と語っている。農村地域の未実施校の中からまず150校が普及セッターとして選ばれた。この150校を普及拡大の核として、教師や父兄を集めた講演会、給食献立試食会が盛んに開かれる。講習会場では映画『よろこびを共に』やスライド『学校栄養士の一日』が上映され、普及用パンフレ″ト『学校給食のすすめ』が大量に配布された。

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文部省学校給食課の担当官や大学の教授連が教壇から「パン食の効用」を説き、農村ではめずらしいコッペパンが学習机の上に並べられた。学校給食を知らない農村の父兄たちに与えた効果は絶大であった。

この事業と並んで、アメリカは300台のミルクーミキサーを全国の給食未実施校に寄贈している。好評を呼んだ農村普及事業は三たび更新され、昭和37年(1962年)まで続けられた。講習会等への参加者は23万人であった。文部省が昭和51年(1976年)に発行した『学校給食の発展―三十年史』では、「この事業は農山村地域の学校給食普及に大きな役割を果した」と評価している。

私たちは東京・虎の門の日本学校給食会を訪ねて、当時の機関紙『学校給食広報』を見せてもらった。昭和32年から34年にかけての各号は、この農村普及事業の記事で一杯であった。「宮城の講習会、予期以上の盛況」とか「4ヶ月間に4万人が参加」と見出しが並び、北海道から九州まで各地の講習会の模様が写真入りで報じられている。子供の座る小さな学習机に農民らしき父親がチョコンと腰をかけて、めずらしそうにコッペパンをかじっている写真が印象的であった。機関紙のファイルを何枚かめくっていると、「アメリカのベンソン農務長官が学校給食を視察」という記事があった。

昭和32年10月28日(1957年)、来日中のベンソン長官が埼玉県大宮市の東小学校を訪れた時のものである。おそらく、あのキッチンカーに同乗して、うどんを食べたのもこの時であろう。余剰農産物処理に関するアメリカの責任者として、彼はその運用が日本で有効になされているかどうか視察しにきたのである。ベンソン長官はこの小学校で全校児童を前に、次のようなあいさつを行なっている。

「日本の学校給食計画は世界でも最も優れたものの一つとして認められています。この計画は、みなさんの栄養水準をいま高めると共に、将来大人になったときのために食生活改善の習慣を身につけさせておくという意味も持っています。

私はまた学校給食計画について、もう一つの意義を認めるものです。それは日米両国の貿易の促進にも役立つということです。みなさんが給食に使用している典型的な食品の中には、アメリカから送られたミルクや小麦粉なども含まれています。これらの食料品は、日本国民の食生活に大きく寄与するもので、我々は日本に対しこのような食料品を供給できることを喜んでいます」

このあいさつを受けて、六年生の金井雅子さんが代表で歓迎のあいさつを述べている。

「私たちは、アメリカから送っていただいた小麦とミルクの栄養のおかげで、戦前の子供たちと比べて見違えるような丈夫な身体になりました。喜んでいるのは私たちだけではなく、家の人たちも同じようにパンが好きになりました。これからも身体をますますきたえて、アメリカのお友達と一緒に平和な世界のために尽してゆきたいと思います」

ハンフリーも絶賛

オレゴン小麦栽培者連盟の対日小麦市場開拓事業は、第二年次に入った段階ですでに数かずの成果を遂げつつあった。リチャード・バウム氏がその報告書で掲げた一項目の事業計画案(85ページ参照)はすべてが実施の緒についていた。しかし、バウム氏にとって一つ心配なことがあった。彼らの活動を資金的に支えているPL480が期限切れで廃案になるかも知れないという噂が、アメリカ国内でとびかい始めたのである。

そもそもPL480は、急激に膨れ上がった余剰農産物を緊急に処理するために立案されたもので、当初は3年間を目途とする時限立法であった。その3年間が経過した段階で改めてPL480の存在意義が問われることになったのである。この頃アメリカ小麦の在庫量は、3年前よりもむしろ増えていた。PL480が効果をあげていないためだとしたら廃案にすべきであったし、現行法内に問題点があるためだとすれば改正する必要があった。

1957年6月、アメリカ上院農業委員会は、「PL480に関する公聴会」を開催した。座長は後に大統領候補にもなるヒューバート・ハンフリー上院議員であった。上院の324号会議室には、上院農業委員の面々が列席し、農務省からは長官になる前のバッジ次官補、そして東畑氏とやりあったアイオアネス海外農務局次長も姿を見せていた。

ハンフリー座長は公聴会の冒頭で目的をこう述べている。

「私はPL480には格別の関心を持っていたので、農業委員長の許しを求めてこうして座長をつとめさせてもらうことになった。この公聴会の目的は、PL480に関してあらゆる角 度からの検討を行なうことである。そのため、証人には農務省に限らず国防省や商務省など広範な政府機関・民間団体からも参加を求めるつもりである。

公聴会では、余剰農産物の海外向けプログラムが、アメリカの海外援助の全体目的にどんなプラスとマイナスを生んでいるかを検討する。また、どうすれば余剰農産物の海外処理がより効果的になるか、その中で民間団体の果すべき役割は何かも探りたいと思っている。

つまり、PL480についてあらゆる側面から賛否両論をたたかわせて、その議論の成果をより建設的な立法に結びつけたいというのが私の念願である。

ハンフリーはこの公聴会開催までの間に、農務省・国務省・国防省などから膨大な報告書を提出させて準備に当っていた。

この公聴会に実はあのリチャード・バウム氏も召喚されていた。せっかく対日工作が軌道に乗りかけているのに、廃案にされてたまるものか、バウム氏は日本における市場開拓事業の概要をまとめた参考資料をもって、公聴会に臨んでいた。何人かの証人喚問が終って、34歳のリチャード・バウム氏は、地元選出のノイバーガー上院議員に紹介されて証言席についた。

以下は、ワシントンの国立公文書館に残されていた公聴会議事録からの抜粋である。

ハンフリー 本日はオレゴン州出身で農業問題に造詣の深いノイバーガー議員にも来てもらっている。ノイバーガー君どうぞ。

ノイバーガー 私はみなさんにオレゴン小麦栽培者連盟のリチャード・バウム副会長を紹介したい。バウム君はオレゴン農民の先頭に立って、東洋に小麦市場を開拓するために活躍しているのです。私はオレゴン農民が切り開こうとしているこの事業にこそPL480の存続意義があると信じ、バウム君を紹介する次第です。

ハンフリー ありがとう。ではバウム君どうぞ。

バウム 初めに当連盟の活動概要をまとめた参考文書を提出致します。ご参照ください。ではそのハイライトを申しあげます。オレゴン小麦栽培者連盟は、東洋の中でも日本が最も有望な市場であると判断し、PL480資金の運用をまず日本に集中させました。最初のプログラムであるキッチンカーは大成功をおさめており、日本の一流新聞にはこんな投書も載りました。

お手許の資料にもありますが読みあげてみます。

「緑の野山を縫って、ピカピカの大型バスが軽快なメロディーをかなでながら、やってきました。子供も主婦も駆け寄ります。一日のうちに必ず一度は粉食が必要であることを科学的に説明され、しかも目の前で調理されるのを見ていると、こんなに簡単なことから、一生を左右する健康状態が生まれるものだと認識を新たにさせられました。みんなで少しずつ分け合って 『おいしいわね』とだれもがニコニコしながら楽しく試食しました。キッチンカーは何と親しみやすい、すばらしい時代の恩恵でしょう」(千葉県の主婦30歳。『毎日新聞』昭和32年5月15日)

ご承知のように日本は伝統的な米の国です。パンを食べようにも満足なパン屋すらないのです。そこで私たちはパン業者の育成にも力を注ぎました。そして今、学校給食の地方普及事業も始まろうとしています。日本の多くの指導者が、学校給食ほど有効なものはないと忠告してくれました。日本には1200万人の小学生がいますが、パンをとり入れた完全給食を受けているのはその半分の600万人。ミルクだけのところが100万人です。残り500万人のうちまず50万人の児童を対象にパン給食拡大のキャンペーンを行なうことになっています。

ハンフリー その点について日本政府は協力的であるのか?

バウム はい、たいへん協力的です。学校給食を全国に普及させるのが日本の国策ですから大歓迎なわけです。

このほか私たちは日本の商社マンを対象に「アメリカ小麦杯」のゴルフ大会も始めました。

カナダやオーストラリアの小麦局がこの種の催しを始めたので対抗上迫られて、これはオレゴン小麦栽培者連盟独自の費用でスタートさせました。重要な活動として人事交流も行なっています。去年の八月には、農林政務次官を含む4人の要人(Key person)をアメリカに招待しました。こうした活動の総経費は107万ドル(三億八〇〇〇万円)にのぼり、そのほとんどがPL480による農務省資金です。

まだ効果を云々するには早計ですが、心強い統計が出ています。日本人一人当りの米の消費量は、戦前水準の149キロから119キロに減りました。その反対に、小麦は14キロの戦前水準が、都市部では3倍の41キロに伸びています。

証言の最後に当り、PL480号の重要性を強調したいと思います。海外の何百万人という潜在市場が、この制度によって初めてアメリカ農産物を買う力を得たのです。世間では、PL480を一時的な制度だと見なす人もあるようですが、これほど活用されているものを、なぜやめなければならないのでしょうか。

 ハンフリー いいことを言ってくれた。われわれは時として、役にたたない法律を長続きさせたり、有効なものを途中でやめたりしがちなものだ。

 バウム 重ねて委員諸兄にお願いします。どうかPL480を永続させる方向でご検討ください。短期間で終る制度ならば、私たちはわざわざ東京に事務所を置いたり、日本人を雇ったりはしなかったでしょう。

ハンフリー ありがとう、バウム君。たいへん説得力のある証言だった。君たちの活動がうまくいくよう私からも農務省に話そう。ところでノイバーガー議員、このいい話を一度上院本会議で報告してくれないか。われわれがいつも聞かされるのは、余って困ったという話ばかりで、こうした余剰活用の優良事例はみんなにも知ってもらったほうがいいと思うが…。

ノイバーガー それはたいへん光栄なことであります。

大物議員ハンフリーから、バウム氏は手ばなしでほめられた。しかも彼は今後の支援を約束した。若きバウム氏が男をあげた檜舞台であった。この証言が役立ったためだけではないが、結局PL480は、若干の修正をみるだけでその後も継続されることが決まった。

バウム氏たちの対日市場開拓事業はすべてが順風満帆のようにみえた。しかし、この時一つの重大な落し穴が彼らの前途に待ち受けていたのである。

(5章ここまで)

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(6、7、8章は掲載無し)
何とも気になる終わりになってしまいましたが、十分食の欧米化の裏側を理解できることと思います。この後、落とし穴があったとありますが、粉食は更に広がり、米食は攻撃を受け、小麦や、アメリカの穀物を必要とする畜産が日本に根付いていきます。目次や今の日本を見て頂ければその後どうなったかは想像できるかと思います。

 

6、ハードな販売作戦への転換
駐日代表の辞任
二代目ハード作戦
人脈を作れ!
テレに番組も提供
日米の”相互利益”

7、粉食大合唱の中で勝利宣言
”米を食べるとバカになる”
総資本の選択
1億ブッシェルのダルマ

8、いまアメリカ小麦は
オレゴンのパイオニア農民
次は中国市場だ!
バウム氏との再開
食管の危機

あとがき

「昨年8月、NHK撮影部の原沢辰夫カメラマンと私は、一ヶ月ほどのアメリカ取材をおこない、11月にNHK特集『食卓のかげの星条旗ー米と麦の戦後史ー』を放送した。多くの視聴者から「初めて聞く話だ。もっと詳しく知りたい」という反響がもあり、家の光協会からのすすめもあったのでここに一冊の本にまとめることになった。

リサーチから含めると半年近くかかって取材したテーマである。自分なりに文章として整理しておきたいという気持もあった。

米の過剰問題を消費の面からとらえ直すことにより、日本の稲作農民が置かれている状況を、都会の消費者にも自分の問題として考えて貰いたいーーそう念じてペンを執った。

私は日本の米が、アメリカの小麦に追いつめられて行くプロセスとメカニズムを追求したかったのである。その点では、プロセス面に比べて、メカニズムの解剖が今ひとつ弱いことを自白しておく。

米と麦の二大主食の戦後史をアメリカとの関係で書いた著書は非常に少ない。私たちの取材が全く手探りで進められた。・・・」

(あとがき、ここまで)ーーーーーーーーーー

 

貴重な情報を掲載して頂いた「正しい食を考える会」さんに感謝致します。
この歴史的事実に目を向け、私たちはどうすべきかを考えていきましょう。

■中山■