第4章 日本市場開拓の立案

※ネット上の情報を繋いでいるため、書籍と内容が全て一致していないことをご了承下さい。

・強調したい部分は赤字
・訳注はオレンジで示します
・写真は「食卓のかげの星条旗」から私が挿入したものです

日本市場開拓の立案

 

オレゴン小麦栽培者連盟

略ーーーー

こうしてバウム氏はオレゴン小麦栽培者連盟に加わった。この頃になるとヨーロッパ諸国は戦災から立ち直り、小麦の余剰の兆候がじわじわと農民達の肌に感じられ始めていた。そこで彼らは遂に行動に出た。
1949年秋、オレゴン農民は初代運営部長のベル氏を、東南アジアの市場調査に4か月にわたって派遣したのである。アイゼンハワーがボールズ氏らを送り出す5年前のことであった。(オレゴンの農民たちはPL480制定前から市場開拓に動いていた)パッカード氏が見せてくれた当時のベル報告書には、「アジア各国、特に日本では小麦食品の消費が十分に伸びる可能性があり、そのためには積極的なプロモーションを実施し、小麦の栄養価値・簡便性・経済性をPRすることが必要である」と書かれてあった。
もしも、この翌年朝鮮戦争が起こっていなかったら、彼らの対日工作はもう少し早まっていたかも知れない。ベル報告書の提出は、戦争ブームが終わる1953年まで、しばし棚ざらしとなる。
朝鮮の戦火がおさまった後の、小麦相場の暴落はすさまじいものであった。遂にオオカミはやってきた。オレゴン農民は、PL480の成立を首長くして待った。この法案が通れば、ベル氏が提言した市場開拓作戦を国家の資金を使って実行に移せるのである。
1954年7月、PL480が遂に発効すると、彼らは外国政府との交渉妥結を待たずに、早速調査団を派遣することに決めた。オレゴン小麦栽培連盟に入って6年目の経験を積んだリチャード・バウム氏にとって、その腕前を発揮する時がやってきたのである。

1954年9月、リチャード・バウム氏は初めて日本の土を踏んだ。彼の来日目的は、もはや単なる市場視察ではない。如何にしたらアメリカ小麦を売り込めるかーー。その具体的作戦プランを練り上げるために乗り込んできたのである。
羽田に着いたボーイングのプロペラ機からは、当時31歳の若きバウム氏と並んで、二人のアメリカ人が降りてきた。アール・バロック氏はアメリカ農務省からお目付役として、そしてもう一人は案内役として全米製粉協会から派遣されたゴールドン・ボールズ氏であった。ボールズ氏はこの5月にもアイゼンハワー大統領特命の市場視察員として来日したことはすでに述べた通りである。
一行三人は、農林・厚生・文部などの関係官庁や商社・製粉業界などと精力的な下打ち合わせに入った。「日米政府間で受入協定が結ばれたならば、新しい市場開拓資金ができる。この金を日米共通の利益のために使おうではないか。日本人に小麦食品を普及させることは、あなた達のメリットにもなるはずだ。パンでも、めん製品でもいい。何か効果的な方法はないものだろうか」――バウム氏は熱心に説いてまわった。
三人が来日してまもなく、愛知・東畑使節団が余剰農産物交渉に出発した。世間の目はワシントンに集中し、バウム氏達の下工作が、ひざ元の東京で進行していることに気づく人は少なかった。この準備工作は、東南アジア訪問も含めて二ヶ月に及んだ。その中で彼らが得た最大の収穫は、キッチンカーの存在を知ったことであった。

東京の日比谷公園で開催された日本農機展に、一台の奇妙なバスが陳列されていた。古い廃物の都バスを改造し、中に調理台を積み込んだだけの粗末な試作品出はあったが、バウム氏はこの”動く調理車”の高価を見逃さなかった。「これを作ったのは誰か」とたずねると、厚生省栄養課張の大磯敏雄なる人物があらわれた。この大磯課長は「わが厚生省では国民の栄養水準を高めることが一番の課題になっている。この調理バスをたくさん作って、食生活の遅れた地域を巡回したいのだが、いかんせん予算がつかないのだ」とバウムしに事情を話した。バウム氏は「これだ」と叫んで、大磯課長の手を握った。

二通のマル秘報告書

実際にキッチンカー・キャンペーンがスタートを切るのは、昭和31年(1956年)の秋である。大磯栄養課長との出会いから丸二年もかかっている。この間、バウム氏は農務省のバロック氏と二人で再来日を繰り返しているが、準備作業にどうしてこれほどの時間がかかったのだろう。オレゴンの生産者たちは、政府間交渉さえ始まらないうちにバウムしを送り出したというのに・・・・。この疑問を直接バウム会長にぶっつけてみた。バウム会長は「何ごとも初めは時間がかかるものだ」と前置きし、「日本の農林省が初めはあまり乗り気でなかった点もあったが・・・」と言葉を濁した。この空白の2年間については、ふれられたくないようすであった。
私たちはペンドルトンの小麦栽培者連盟事務所で2通の報告書を発見し、初めてこの時の真相を知った。バウム氏らは、農林省の強い抵抗に会い、立ち往生していたのである。ここにその報告書の要約を掲げることにする。「部外秘」と銘打たれたこの報告書は、バウム氏とバロック氏の連名で、オレゴン小麦栽培者連盟とアメリカ農務省宛に送られたものである。
[報告Ⅰ]昭和30年10月27日 東京
10月9日に来日してから18日間が過ぎたが、唯一の障害がまだ破られない。問題は農林省の頑固さだ。農林省は、小麦の市場開拓を全て自分たちに任せろと言って聞かない。こうした事業は日本政府が行うのが筋で、外国の事業団体の監督は無用だという。(原資200万ドル、当時の7億2000万円)の全てを委ねてもらえば、農林省がうまく諸官庁や業界に配分して運営してやると我を張るのだ。農林省は、この資金がアメリカ政府の金で、アメリカの目的のために使われるものだと言うことを全く無視している。その上、われわれがすでに厚生省と話をまとめ、ワシントンの承認まで取りつけてある事業に対して、農林省はそれを自分たちの所管事業にせよと指示してきた。さらに14の新たな事業項目も付け加えている。その中は受け入れていいものもあるが、いくつかは、小麦の市場開拓に役立つと言うより農林相自身の勢力拡大を意図しているもののようにも見える。農林省が市場開拓をしようと企てるのには底流がある。農林大臣の河野一郎は、日本一の政治力を持つ男として知られ、全く無謀で極度に野心家であるとの風評が高い。信頼すべき実業家の話によれば、河野氏は自分の地位を利用しては、彼個人のふところや自民党に入る利得を稼ぐのが常であるという。そんな評判もある以上、農林省からの申し出には、細心の注意と調査が必要だろう。

これと対照的に、厚生省は実に友好的で協力的である。この省は栄養政策を担当し、46府県に782の保健所を持ち、1万2000人の栄養士を動かしている。彼らはこの10年間、食生活改善運動を進め、もっと野菜・魚・小麦・乳製品を食べなさいと指導している。キッチッン・カーなる調理バスもすでに試作されていた。(つまり、アメリカの介入がある前から厚生省では欧米食追随思想があった)われわれの計画の一つは、厚生省の栄養改善運動を、このキッチッン・カーの使用によって拡大強化しようと言うものだ。ところが、農林省はこれに異議を唱え、農林省の生活改良普及員組織を活用した方が、もっとうまくやれると主張する。これまで何の実績もないくせにである。
われわれの要請によって、日本の小麦関連業界は「小麦販売促進協議会」を組織した。この協議会が担当する事業として、パン職人の研修会と小麦食品の全国宣伝キャンペーンを準備してきた。ここでまた農林省が口ばしをはさんだ。アメリカが日本の他の団体と、直接に契約を結ぶのはまずいというのである。農林省には食糧庁という部局があり、国民の食糧管理はすべてその管轄下にある。その権限の一部たりとも失う危険は冒したくないという。不運なことに産業界の人々はこの農林省に逆らうことはたいへん臆病である。われわれは、この縄張り争いの問題に対して、外交的アプローチも続けている。駐日アメリカ大使のタモーレン農務官は、日本の関係官庁を集めて「あなた方自身で、どの事業をどの省が担当するかを決めてくれ」と要請した。それからもう何週間もたっている。いまとなっては、この市場開拓の全権限が農林省にあるものではないということを知らしめることができない限り、各省庁間の合意は不可能であると思われる。これまで煮つめてきた第一期事業案は、総費用が約100万ドル(当時の3億6000万円)で、内容的にも有効でバランスのとれたものと自負している。残された障壁は農林省だけだ。何よりもこのPL480にもとづく円資金がアメリカに属するもので、使途を決めるのもアメリカであることを分からせることが先決だ。これは贈与でも借款でもない。われわれは進言する。アメリカ農務省は、よしんば日本の農林省からの承認が得られなくとも、他の団体との事業契約を断行すべきである。万が一、すべてが農林省の支配下に帰することになれば、それは何の市場開拓にも役立たないであろう。

【報告書Ⅱ】昭和30年12月2日 東京
この報告書を、帰国まぎわの宿舎で書いている。滞在期間が55日。日本の諸官庁、農業団体はついに11の事業項目を承認した。すでに伝えた通り、農林省はこの事業が彼らの指揮下で行われるものでないことに、なかなか気づかなかった。しかし、一通の手紙が彼らにそれを悟らせた。農林省派、河野大臣の名で直接アリソン駐日アメリカ大使に手紙を出した(タモーレン農務官を無視し、われわれの頭ごなしにである)。アリソン大使は大臣への返答で、これはアメリカの金であること、その使い道を決めるのはアメリカ農務省であることをきびしく指摘した。この返事を受けてから、農林省の職員たちの態度に変化があらわれた。彼らは、これがアメリカの事業であることを悟ったようだ。交渉の責任者はタモーレン農務長官であり、我々はその指導下で活動していることも認識した。完全に協力的な態度になったというには早すぎるが、少なくとも彼らの権限には一定の限界があることを知り、前より友好的に接してくるようになった・・・・。

よほど苦労したのだろう。バウム氏らは、日本人に対して使う用語の注意まで書き添えている。「アメリカがsupervise(監視する)」とか「direct(指図する)」などという表現は、直訳されると英語の持つ響き以上に刺激的になるようだから気をつけた方が良いと書いている。

当時の農林省内には「アメリカの宣伝の片棒をかつぐのはいやだ」という空気がかなり強かったようである。すでに述べた農林省大臣官房調査課の文書が「米国の小麦市場開拓措置」を批判したのは、ちょうどこの2通目の報告書が出た頃であった。ひょっとすると、この論者こそ、バウム氏の折衝でわたり合った農林省の当事者であったかも知れない。結局は、アリソン大使の親書を受けた河野農相の一喝で農林省内の抵抗はおさまった。アリソン大使がどんな文面で「厳しい指摘」をしたか知る由もないが、河野大臣は自分がまとめてきた第2次余剰農産物購入交渉の正式調印を2ヶ月後に控えており、その前にアメリカともめ事を起こしたくなかったのだろう。しかもこの秋、日本の稲作は空前の大豊作であったことから、アメリカの余剰食糧を受け入れる必要性も薄らいでいた。河野農相は、ほかならぬ身内の大臣官房の公文書で、痛いところを批判されて激怒したに違いない。
いずれにしろ、農林省が態度を軟化させれば、もうバウム氏たちの交渉はもとまったも同然であった。彼は、日本側関係者と合意の出来た11の具体的事項を優先順に並べ、ワシントンの決裁を仰いでいる。(別表 第1期事業計画案)そして報告書の最後を、次のような自信に満ちた表現で締めくくっている。「この11項目からなる事業計画は検討をし尽くしたもので、バランスも取れているものと自負している。日本での市場開拓を成功させるために、どうかこのすべてを承認していただきたい。個々の事業内容は互いに補完し合い、全体の中で相乗効果を生むように配慮してある。それぞれが不可欠の歯車となって大計画を達成させるのである。但し、どうしても初年度予算としての限界を超える場合は、表に示した優先順位を参考にされたい。
〈第1期事業計画案〉
優先
順位   事業内容            経費     協力団体
1 キッチンカー(小麦食品を含む)  171,096 厚生省
2 1に必要なパンフレットなどの作成   41,750 厚生省
3 全国向け宣伝キャンペーン     371,237 農林省 (財)全国食生活改善協会
4 製パン技術者講習会        113,210農林省  (財)全国食生活改善協会
5 専任職員(日本人)の雇用      32,482 ーー
6 生活改良普及員の講習       62,349 農林省
(小麦を使った料理法)
7 PR映画の制作・配給       92,000 農林省
8 食生活展示会の開催        23,160 農林省
9 小麦食品の改良と新製品の開発   58,164 農林省
10 保健所にPR用展示物を設置      59,508 厚生省  (財)日本食生活協会
11 学校給食の普及拡大         140,078 文部省、(財)日本学校給食会
計                1,165,034 (4億2000万円)
注 (1)経費の単位はドル  (2)(財)は財団法人

 

(幻の小麦製品アラー:掲載無し)

 

農協には注意せよ!

取り付く島もなかった農林省の承認をついに得て、バウム氏は得意絶頂であった。基本的合意さえ取りつければ、あとは事務的な手続き事項を残すだけである。
だが、この作業もなかなかの難物であった。バウム氏は、日米間で合意した事項を、アメリカ農務省と日本の諸官庁との間の「協定」という形で締結したいと考えていた。しかし、政府間協定にするには、もっと高度の判断が要請されるし、とりわけ難関は国会の批准を必要とすると言うことであった。日本の外交当局は、「この際、日米間の『覚え書き』か『交換公文』のレベルにとどめておく方がスムーズにゆく。国会審議にまでなれば、政治問題化して流産する畏れもある。」とバウム氏たちに進言した。この点については、バウム報告書は理解を示している。
「この背景には、デリケートな国民感情があることを報告しておかねばならない。いまや日本は自由な独立国家であり、アメリカの意図に左右されてはいけないものだという世論の高まりがある。その上、野党勢力はアメリカに対してつねに敵対心を抱いており、すきあらば与党政権の足をすくおうと考えている。こうしたことを考えると、アメリカ農務省のアタッシュ(中日農務官)が、資金運用を監督するという大前提さえ留保すれば、協定という形式にはこだわらない方がいいのではなかろうか」
あのキッチンカーのキャンペーンでも、アメリカは決して全面に出ることはしなかった。バウム氏は「影にまわる」知恵をこの時学んだのかも知れない。
さらに運用上の問題がもう一つあった。日本の官庁は外国資本を直接受け取ることができない。資金はすべて大蔵省に一旦プールされて、国会の予算審議を経て、初めて各省に配分されるものである。これではまた面倒なことになる。そこで彼らは一計を案じて、こんな方法を考え出した。関係各省はそれぞれ第三者団体(財団法人)を作り、この法人とオレゴン小麦栽培者連盟とが民間ベースで契約を行い事業を実施する。日本の官庁とアメリカの農務省はその背後で監督を行うというものである。
だが、ここで外郭団体の選択を巡って、農林省とまたもや一悶着があったようである。バウム氏は先の第二報告書に「追伸」としてこう書いている。
「市場開拓事業の遂行に当たっては、くれぐれも監督を怠らぬ事が重要である。さもないと、協力団体は事業をおもちゃにしてしまう畏れがある。中でも、財団法人・全国食生活改善協会には細心の注意が必要だ。これは農林省の外郭団体で、会長の荷見安氏は元農林次官でもあり、いまは全国農協中央会の会長も務めている。厚生省は、この協会のバックには農協があるから契約しない方がいいと言った。実際、この農協という巨大組織は米を含む日本の農産物の販売に熱心すぎて、国民の栄養問題を無視する嫌いがある。われわれは、この協会とは別に、小麦販売促進協議会を組織させようとしたが、農林省の反対で果せなかった。食糧庁が小麦の払い下げを一手に握っている以上、製粉関係者は逆らえないのである。今後十分な警戒が必要であろう」
バウム氏が要注意と指摘したぜ全国食生活改善協会は、食糧難のまっただ中にあった昭和25年頃に、荷見会長の提唱で誕生したもので、このアメリカ資金導入を機に財団法人になっている。初代会長の荷見氏は、農林相時代に米穀課長、米穀部長、米穀局長を歴任し、事務次官で退官するまで米行政一筋に歩んできたことから“米の神様”として広く知られていました。この頃は、農林中金理事を経て全中会長のポストにあり、日本の農民陣営の最高権力者であった。その荷見安氏が自著で当時をこう回顧している。
当時、私も粉食奨励に一役買った思い出がある。終戦直後、都会などでは大変な食糧料不足になって、それを一日でも放っておくわけには行かないという緊急事態に迫られた。それで、前農林大臣で当時経済安定本部長官であった周東英雄さん、社会党の三宅正一さん、主婦連の奥むめおさんたちと相談の結果、私も仲間に入って食生活改善協会というのを作って、その会長をしたことがある。そしてこの協会を足場に、粉食業者、製パン業者がほうぼうから手弁当で集まっては、粉食の習慣を国民につけさせようと一生懸命に働いたことがあった。政府にもいろいろ働きかけて、学生と言うよりも学童たちから、米に偏らないような食生活を身につけさせてやろうという方針を立てた。そこで学校給食を始めるにあたって、大達さんが文部大臣になったときに、一番に尽力してもらい、初めは実現もなかなか難しかった学校給食を、大いに推進させたのだった。子どもは学校から帰っても、食糧不足で食べ物がない。だから学校で、給食としてパンを食べさせる。そうすれば子どもはパンに直ぐになじみが出てくる。これを数年かけていくうちに、やがて子供たちは『米はなくてもパンでいいよ』と言い出すようになったのだ」(荷見安著『米と人生』昭和36年わせだ書房)
さすがの“米の神様”も、粉食奨励がこれほどの米離れにつながるとは考えていなかったようである。晩年になってから荷見安氏は「少しやり過ぎたかな」と側近にもらしたという。

さて、リチャード・バウム氏が市場開拓の初期事業プランをまとめあげて帰国したのち、懸案の合意文書の取り扱いについては、駐日アメリカ大使と外務省との間で最後の詰めが行われていた。昭和31年の1月から2月にかけて、外務省の湯河盛夫経済局長と、アメリカ大使館の経済担当参事F・ウエアリングは、7通にのぼる交換文書を取り交わして、外交的な裏付けを完了している。
これですべての地ならしは終わった。

(4章ここまで)

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