第3章 霞ヶ関の思惑

※ネット上の情報を繋いでいるため、書籍と内容が全て一致していないことをご了承下さい。

・強調したい部分は赤字
・訳注はオレンジで示します
・写真は「食卓のかげの星条旗」から私が挿入したものです

霞ヶ関の思惑

 

“食糧と外貨の一挙両得”と首相特命の極秘プロジェクト

昭和29年1月18日(1954年)、ベンソン農務長官がPL480の法案上程を初めて表明した時点から、日本政府の受け入れ準備はあわただしく始まっていた。アイゼンハワーの余剰農産物計画が、づづく1月21日の予算教書でも言及されると、ワシントンの日本大使館は大騒ぎになった。急いでドッジ予算局長に面会を求め、詳細内容の打診が行われた。
「総額で10億ドルもの食糧がドル(外貨)なしで買えるらしい。しかもツケ払いで国内経済の開発資金に使えるようだ。一部は、タダでもらえる可能性まである」
1月末、ワシントンの武内公使は、いち早く霞ヶ関に打電してきた。
2月6日、農務省の東畑四郎事務次官は吉田茂首相に呼び出され、緊急に調査を開始するよう命ぜられた。
農務省内に極秘のプロジェクト・チームが組まれ、精鋭の若手官僚が集められた。武田誠三氏(現米価審議会長)や森繁治氏(後の水産庁長官)らも加わった。東畑次官が自ら指揮し、チームはデータ集めやアメリカ議会での審議内容の研究に没頭する。

余剰農産物の受け入れをめぐって、農林省内では激しい議論も行われた。「アメリカの余りものを押しつけられて、結局は日本農業が押しつぶされてしまうのではないか」というきびしい指摘も一部にはあった。しかし、「血の出るような外貨が節約できるのなら、こんなチャンスはない」という現実論も強かった。特に前年度の稲作は極端な不作で、「人造米」までがマスコミをにぎわせた時でもある。当時、日本は講和条約の発効にともないガロオア・エロアの援助資金を打ち切られ、独力で食糧輸入にあたらなければならなかった。その食糧輸入は日本の総輸入額の30%を占め、慢性的な外貨不足の最大の原因になっていた。

しかも、農林省では愛知用水や八郎潟などの農業開発計画を練っている最中であった。かつてない大規模開発の最大の隘路(あいろ:狭き困難)は資金不足であった。余剰農産物受け入れの見返り資金を農業開発につかえるなら、一挙両得になる。愛知用水事業にかけていた東畑次官も受け入れ推進派であった。(愛知用水計画は米作のための計画だった。このことから米を取り戻そうという意志は日本にあったことが伺える)
そして何よりも「おん大将」吉田茂がこの受け入れに乗り気であった。総理大臣の“ゴー・サイン”が出ていたのである。この頃、国内の政情は不安定で、さしもの長期ワンマン政権も崩壊寸前とささやかれていた。PL480によって巨額の経済開発資金を引きだし、朝鮮特需を失ってあえいでいる財界の期待に答えようー吉田首相は己の人気回復をこれにかけていた。

この年の10月、池田勇人政調会長は首相特使としてワシントンに飛び、ロバートソン国務次官補との間で1か月にわたるMSA交渉を行っている。宮沢喜一氏も同行したこの会談で、日本側は軍事力増強とひきかえに、いくばくかの経済援助を引き出そうとねばった。だが、手みやげは余剰小麦受け入れの5000万ドルだけで、しかもその8割はアメリカ側使用分であった。この見返り資金を「不況の突破口」として大いにアテにしていた財界は、日本側の使用分がたった1000ドルしかないのかと吉田政権に不満をぶっつけたものである。
ここでMSA小麦についてふれておく必要があろう。そもそもMSA法とはアメリカが1951年に、それまでバラバラであった一連の海外援助を、一つの軍事援助体系にまとめあげたものである。
MSA法は、被援助国の軍事義務を謳っており、池田=ロバートソン会談でまとめられた日米MSA協定も、日本の再軍備を推進するのが第一の狙いであった。
しかし、農産物の余剰が表面化した1953年8月、アイゼンハワーはMSA法第550条を改正させ、この軍事援助法に余剰農産物の処理をもぐり込ませている。余剰農産物の販売代金を受け入れ国の通貨で積み立てさせ、それをアメリカが軍事援助、軍事物質買い付けに使用する。そして一部は受け入れ国が自国の軍事産業育成などに使用できるようにした。池田特使一行はこの改正されたばかりの550条に着目し、余剰小麦を買い付けることにより見返り資金を引き出そうとしたのである。

MSA法第550条はPL480が誕生するまでの過渡期の産物と言っても良かろう。外国通貨による売却方式は、ここの初めて姿を見る。だが、MSA法が本来的に軍事目的を一義とする以上、この条項改正で処理できる農産物の量は知れていた。事実、このMSA法による農産物販売の評判は悪く、「食糧がドルなしで入るのは有り難いが、多くの軍事義務をともなうのは重荷である」と敬遠する国が、特に発展途上国には多かった。
軍事色を最小限にとどめ、しかも相手国が使用できる資金配分を高めることによって、余剰農産物の処理実績を一挙に高めようとしたのが新立法PL480であった。
「今度は産業開発資金を目いっぱいに引き出して、緊急財政を補おう」
前回のMSAの不評を挽回し、財界の人気をつなぎとめよううと、吉田総理の大号令がかかったのである。

余剰農産物の受け入れ交渉

昭和29年10月(1954年)、余剰農産物受け入れ交渉に臨む政府使節団が渡米した。団長は愛知揆一通産大臣で、宮沢喜一議員、武内外務省欧米局長らにまじって東畑四朗農林次官も同行した。一行はアメリカの当局者と予備交渉を進め、11月に訪米を予定している吉田首相の到着までには大筋の合意をとりつける方針であった。彼らの出発に先だって関係諸官庁では何回も協議が持たれ、見返り資金の配分計画までを含めて日本側の腹案はまとめられていた。その内容は「受け入れ総額は1億3000万ドルを要望する。その三分の二は贈与、つまり、タダでもらう。残り三分の一を長期債権とし、その金額を日本側使用とする」というものであった。

ワシントンに到着すると、すでに各国からの代表団が乗り込んでいた。日本以外に受け入れ申し込みをしている国は14もあった。その中で日本が提示した要望額の1億3000万ドルは、アメリカが初年度の総枠と考えている3億ドルの40パーセントにも達するものであった。しかも「贈与を三分の二。買い付け代金の全額を日本の使用分」とするのは、あまりにも虫がいいと一蹴され、交渉は初めから難行する。

この交渉にあたって、アメリカ側には国務省・農務省・商務省・対外活動本部(FOA)・連邦予算局の関係五省で構成される余剰農産物処理委員会ができていた。委員長は大統領顧問のクラレンス・フランシス(バヤリースオレンジ会長)であった。PL480は農務省が所管する農産物を処理する法律であるが、その代金使用については各省の共菅で行うことを規定していた。
日米間の代表折衝が進み、日本側が妥協して次のような大枠まで煮詰まった。

日本の受け入れ総額は1億ドル(当時の日本側要望は1億3000万ドル)とし、そのうち贈与分を15パーセント(同67パーセント)、買い付け分を85パーセント(同33パーセント)とする。(1億ドル分の農産物を受け取り、内15%はタダということ)

だが、8500万ドルの円買い付け見返り資金の使用取り分をめぐって交渉は難行を続け、アメリカ側から日本政府が使えるのはその半分にも満たない3900万ドルにしたいと提示してきた。日本側は激しく抵抗した。吉田首相の訪米までにまとめあげたたかったが、これではMSAの二の舞で“手土産”にもならないではないか。

アメリカ側もなかなか譲らなかった。それにはアメリカ内部の事情があった。交渉に出席しているどの省庁も、それぞれ独自に日本で行いたい事業計画を持っているために、仲間同士でこの円資金の分捕り合戦を演じ、容易に日本側の取り分を増やすことに同意しないのである。これでは何回会議を開いてもらちがあかないので、ある日の席上で、宮沢喜一氏は「一体こんあことまでして、アメリカのお手伝いをして、余った小麦を買う必要があるのかしらん」と大声で“ひとりごと”を言ってやったものだと、その著書に書いている。(東京―ワシントンの密談)備後会発行)。

最終的には、日本にあまり買い付けたくなかったカリフォルニア米を含めるなどの妥協をし、日本側取り分を6000万ドルにすることで話はついた。日米双方の円貨使用の細目についても基本的な合意が出来、日米余剰農産物交渉は吉田首相を迎えた11月13日妥結する。そして正式には翌30年5月31日、重光外相とアリソン大使が余剰農産物協定に調印して発効するのである。

この結果、日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)をはじめ綿花、米、葉タバコなど1億ドル(当時の360億円)ものアメリカ農産物を受け入れることになった。このうち55億円相当が、学校給食用の小麦・脱脂粉乳の現物贈与であった。円貨で買い付けた306億円のうち、70パーセントは日本側が電源開発(182億円)、愛知用水等の農業開発(30億円)、そして生産性向上本部などに配分した。残り30パーセントの92億円については、アメリカ側が駐日米軍用の住宅建設、第三国向けの物資買い付け、そして本論のテーマであるアメリカ農産物の市場開拓に使われることになったのである。

当時の新聞報道を見ると、この市場開拓の一項には何の注釈もつけられていない。しかし、バウム氏たちのアメリカ小麦の宣伝事業は、この時、初めて日本で自由に活動する権利を、法的にも資金的にも保障されたのである。

東畑元農林次官の述懐

余剰農産物交渉の体験談を書こうと、私たちは東京麹町の食糧会館に東畑四郎元農林次官(現全国食糧事業協同組合連合会会長)を訪ねた。いまなお農業会に影響力を持つ大御所である。氏の記憶力は驚くほど確かであった。

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「昭和28年(1953年)のMSA小麦の時はうかうかしていると日本農業を危うくすると思ったが、あのPL480については正直なところ、願ってもない外貨導入になると思ったのです。軍事目的のダシにされたんじゃかなわないが、日本の農業開発にその金が使えるなら結構じゃないですか。あの頃、愛知用水開発には農水省あげて取り組んでおったし、吉田首相も熱心だった。ところが、世界銀行のドル借款でもまだ資金が足りない。だから、省内でチームをつくって研究したポイントも、アメリカの新しい法律が相手国の農業開発に金を使わせるかどうかどうかということにあった。実は、下院の議事録をとり寄せたらですよ、向こうの議院が『これはアメリカの余剰農産物の販路拡大が目的なのだから、相手国の産業開発に金を使わせるといっても、農業だけは除外すべきだ』と盛んに発言しとるのですね。このことが出発前も一番の気がかりでしたな」
東畑氏は愛知用水の建設を成功させることが一番の狙いであったと何度も強調した。
「向こうへ行くと、特別の委員会ができておって、バヤリースの会長が座長をつとめていた。早速、私が下院の発言問題を問いただすと彼はこう言ったですよ。『農業開発が日本の国民経済に役立つことであるなら、いちいちそれに反対するほどアメリカはフーリッシュではない』とね。これは安心しましたな。まあ、1か月もワシントンにおったのだからいろいろなことがありました。交渉は大筋については例の余剰農産物処理委員会とやり、細目については各省の責任者と折衝するんだが、肝心の農務省で誰が決定権を持つ人物かがわからんで苦労しました。一週間かかって、やっと見つけた男が海外農産局の局長代理でアイオアネスといって、まだ若いが骨のある人でしたな」
――そのアイオアネス氏とどんな話し合いをしたのでうか?
「一番初めは通常輸入量の算定からですよ。PL480は、通常のドルによる民間貿易を損なわないという大前提があったのです。小麦や大麦の一つひとつの輸入実績を割り出して、双方で確認して行かなくちゃならない。こっちとはできるだけドル輸入は少なく見積もろうとするが、向こうは占領軍時代に提出させた時計をちゃんと全部ファイルして持っているんですな。随分冷や汗をかいたですよ」
――愛知用水計画についてのアイオアネスの氏の反応はどうでしたか?
「彼の頭には多少、下院の論議がひっかかっていたようですな。『農業開発の必要性はわかるが、まあ全体の一割くらいの額でがまんしてくれ。それ以上ふっかけると元も子も無くなるから』とむしろわれわれに助言するような感じだったですよ。連中は、用水計画よりは、八郎潟の干拓計画に乗り気でした。その方が派手ですからね。アイオアネスがさかんに持ち出してきたのは、『農産物の市場干拓費』のことでした。『農務省関係の要求はこれ一本でゆくから応援してくれ』と言ってましたな

――アメリカの各省間で、ずいぶん縄張り争いがあったようですね?

「それはすさなじいもので、我々はよく振り回されたものです。こんなことがあったですよ。交渉も終盤に入り、ほとんどまとまりかけておった矢先に、急にFOAのスタッセン長官が日本の取り分枠に割り込んで対外活動本部予算を分捕ったと言うんですな。このしらせを聞いて、私は愛知団長と『これは交渉決裂もかくごせんとならんですな』とホテルで相談したですよ。1か月もワシントンにおって、吉田首相もきとったですから、それは深刻でした。そしたら、夜の11時になって、アメリカ農務省の何とか言う幹部とラジンスキーがホテルまでやってきて、『グッド・ニュース』だと言ったんですわ。『スタッセンの話をまたひっくりかえしたから安心しろ』と言って帰ったんですよ。
このラジンスキーという男は、マッカーサーの下で日本の農地改革をやった役人だから私もよく知っていました。とにかく朗報だと言うんで、すぐ愛知さんを起こしてね。夜の12時頃だったが、『大丈夫だ。決裂せんでいい』と話したら愛知さん喜んでね。『どうしてなんだ』と聞くんですよ。何でも農務省のベンソン長官が。『このままでは、日本との交渉は成立せんかも知らん』とスタッセン側をおどしたら閣議がひっくり返ったというんですな。まあ、大変な一夜でした」

――東畑さんは日本使節団ではどんな役割と権限を持っていたのですか。

「私は農林省の次官だったが、綿花(通産省所管)、葉タバコ(大蔵省所管)、学校給食(文部省所管)のそれぞれについて各省から委任を受けていた。団長はあくまで愛知さんだが、彼にはガリオア債務とか防衛問題など懸案の交渉事も多少あったから、余剰農産物受け入れについては私がもっぱら事にあたったわけです。愛知さんとはよく相談したものだ。『国防省に円を使わせるなら、駐日本米軍の住宅建設がもってこいだ。住宅なら米軍が撤退した後も使える』と言いだしたのも愛知さんだったね。交渉の最後に字句の修正でもめた時も二人だけで残りましてね。妥結書に『見返り資金は日本の産業開発に使う』と書いて有るんだが、これじゃ私は帰れない。英語で産業と言えば農業も入るが、日本語じゃそうはいかん。『農業をを含む産業開発』にしろとねばったんですよ。向こうじゃそんな英語あるものかと首を捻ったが押し通しました。おかしな英文だが、直訳調でindustry including agriculture と修正したのを見とどけて空港に駆けつけたら、もう飛行機は離陸寸前だったのですよ」

――今振り返って、余剰農産物協定をどう評価していますか。
「交渉から帰ったときも野党議員からつるし上げにあったが、私は日本農業を圧迫したとは思っていませんね。出発の時から農林省内ででは『あれだけ農業に専念してきた人が、最後に余剰農産物を買いに行くとは何たる因果か』と心配してくれる人もありましたがね。大和田啓気さん(現農用地開発公団理事長)も「えらい運命ですな。役人は」などと言ったもんです。しかしですよ。あの資金がなけりゃ愛知用水はスタートできなかったんですよ。八郎潟開発も、もっと遅れたかもしれない。あれだけ長期低利の外資導入を農業分野でやったのは初めてだったのです。私はその都市の12月に退官したけれども、その点だけは今でも誇りに思っています」

――あの頃、大量に入った小麦が今日の日本人の米離れの一因になったとも言われますが、・・・。

それはあの贈与小麦でパン給食を推進したわけだから、私はその意味では責任の一端はあると思いますよ。しかし、あの時は不作で、食糧輸入はどっちみちしなきゃならん時代だったですよ。これは責任転嫁じゃないが、ここまで農産物輸入依存を野放しにしたのは、その後の農政の誤りだと思いますね。」
東畑四郎氏は最後はきっぱりとした口調で結んだ。氏はいま、米穀卸売業界のリーダーとして米の消費拡大を推進する立場にある。かつてない巨大農業開発とされた愛知用水は、都市化の中で工業用水と化し、もう一方の八郎潟では毎年のように青刈り騒動が繰り返されている。

余剰農産物交渉のその後

さて、話は戻るが、私たちはワシントンのアメリカ農務省の一室で、日米余剰農産物交渉のもう一人の当事者レイ・アイオアネス氏を待っていた。農務省の日本人のイソ氏がここで彼と会見する約束をとりつけてくれていたのである。
アイオアネス氏は口笛を吹きながら部屋に入ってきた。フットボールで鍛えたという堂々たる体躯で、その目相手を威圧する鋭さを持っていた。部屋まで案内してきたドン・ルーパー課長が緊張して小さくなっている。聞くと、アイオアネス氏は数年前に退官するまで12年間も海外農務局長のポストにあり、アメリカ農務省の国際畑に君臨した大ボスであったという。日本にも10回ほど来たことがあり、グレープフルーツの対日自由化も彼がまとめたものであった。
一瞬、気おくれがしながらも、「PL480について伺いたくて参りました」と切り出すと、「それもいいが、他にも私のやった業績がたくさんある。貿易自由化の日米交渉については聞きたくないのか」と不満げに、在任中の資料や写真をとり出した。その中に一枚の気になる写真があった。グレープフルーツの自由化が決まった時のものであろう。握手する二人の男が写っている。一人はサンキスト社の重役で、そしてもう一人は、53年の東京ラウンド交渉で名を馳せた牛場信彦元中米大使であった。

――余剰農産物交渉の模様を話していただけませんか。
「とにかく1ダース以上の国の代表がやってきたのだから、大忙しだった。東畑さんは強く印象が残っている。頑固な農本主義者という感じで、『日米双方の農業に、メリットになるようにしよう』バランス論をぶってきた。用水計画には特に固執していた。私の方としては、この円資金を使ってアメリカ農産物の市場開拓をやることに力点を置いていた。この点について東畑さんも理解と同情を示してくれ、協定の中に盛り込まれるようになった。この資金は後にオレゴンシ州の小麦生産者団体が栄養改善の運動などに使って、大変な成功を収めており、私は大いに満足したものだ」

――PL480の果たした役割をどう評価されますか。
「PL480は、単なる過去の法律ではない。1964年に、『平和のための食糧計画』と名称を変更し、いまなおアメリカの対外農業政策の重要な柱として継承されているものだ。
この法律によって、初期の12年間に150億ドルの余剰農産物が処理された。これはその期間の全農産物輸出額の26%にも相当するものである。ドルがなくても買えるという道を切り開いたことにより、アメリカは海外の潜在需要を有効需要に転換させることに成功したのだ。しかも、その代金はアメリカの世界政策遂行に運用が出来たし、自由陣営諸国の経済強化にも役だった」

――余剰農産物の初期の受け入れ量は、日本が特に多いようですが。
「われわれは、余剰処理を各国一律に割り当てたわけではない。あの頃、日本に対してはアメリカの各省でやりたいことがたくさんあった。農務省でやりたいことはもちろん市場開拓である。そして日本側でも最大限の財政投融資の財源を要望していた。だから、日本に対しては一億ドルというずば抜けて高い額に決まったのだ。二番目はイタリア、ユーゴスラビアの6000万ドルで、その下になるとパキスタン、トルコの、3000万ドルだから、いかに日本に対して重きを置いたかが分かるだろう。
日本は、そうしたわれわれの期待通りの成長を遂げた。PL480での買い付けはそのあと一回で卒業し、すぐさま現金買いの客に出世した。アメリカの下院が『日本の農業復興を助けてはならない』などと言ったこともあるが、それは杞憂だった。PL480の見返り資金が日本の産業開発を進め、今や世界的な工業先進国になったことは祝福すべきではないか」
日米余剰農産物交渉は、若きアイオアネスにとって最初の檜舞台であった。その後はトントン拍子で出世し、次々と農産物貿易自由化を推進して行くことになる。一方、東畑四郎氏にとっては、この交渉が農林次官として最後の仕事になった。」

愛知団長と東畑氏が「産業」の字句修正で、最後の詰めに入ろうとしていた頃、いそいそと帰国の支度にかかるグループがあった。その前夜、東京の池田勇人幹事長からワシイントンの宮沢喜一氏あてに、緊急の電話が入っていた。「日本の政情が急展回し、非常に複雑な段階に行っている。吉田首相の『帰国の筋書き』を打ち合わせたいから、一足早く帰ってこい」というのである。
東京では鳩山一郎氏擁立の気運が高まり、吉田自由党の反主流派である岸・石橋両氏が除名脱退し、重光改進党とのあいだで新党結成の準備が着々と進んでいた。宮沢氏は、首相に随行してきていた佐藤栄作氏と共に11月14日に帰国している。
そして、11月17日、吉田首相は、余剰農産物交渉妥結の手みやげを持って、上機嫌で羽田空港に降り立った。長期ワンマン政権の吉田内閣が総辞職するのは、その三週間後のことであった。この時、保利茂農相の退陣にともない、東畑四郎氏も農林省を去る。
新しい鳩山政権下で農林大臣になったのは、かの河野一郎氏であった。
河野農相は、第二次の余剰農産物受け入れに熱意をもやし、昭和30年9月、自らワシントンに飛んで交渉に臨んだ。河野氏は出発前に「見返り円の日本側取り分を前回の70%から今度は80%に高めてみせる。さらにそのうち半分を農業関係で使う」と豪語していた。
公式交渉はたったの3日間で終わり、買い付け総額は6580万ドルと決まった。そのうち日本側取り分は75%で妥協したが、農業関係で半分使うという公約については、アメリカ側の了解を取り付けてきた。この結果、農漁業開発事業として、愛知用水などの継続事業のほか、新たに漁港整備、肥料・甜菜工場などに資金がまわされた。農林大臣管轄下のこうした予算運用にあたっては、例えば漁港建設の名目で、農相の地元の観光施設づくりにも金がバラまかれたなどと、河野大臣の周辺には利権がらみの噂が絶えなかった。
翌昭和31年、河野農相は第三次交渉にも意欲を示したが、日本経済は好景気に入っており、国際収支も好転し、国内財政資金にも以前ほど事欠かなくなっていた。大蔵・通産両省は、河野氏が前回の交渉で必要以上の葉タバコ・綿花を買わされたことに不満を持っていた。結局、第三次交渉は、12月の石橋内閣誕生=河野農相退陣を機に打ち切られる事に決まった。
こうして日本は、MSA小麦を含めれば、前後3回にわたって、総額で2億ドル(当時の720億円)以上のアメリカ余剰農産物農産物を、通常貿易量の上積みとして受け入れることになる。昭和29年度の一般会計予算が1兆円の時代であるから、その額の大きさがわかろう。中でも小麦の受け入れは1億ドルと群を抜き、この時ふくらんだ輸入規模は、その後、日本の稲作が大豊作の時代を迎えることになっても縮小することはなかった。

大量のアメリカ余剰小麦が押し寄せてくることに大きな危惧を抱いた人もないではなかった。この頃、農林省詰めの新聞記者であった早稲田稔氏によれば、昭和30年12月に、農林相自身の刊行文書(農林大臣官房調査課『過剰農産物の日本農業』)がこう記している。
「過剰農産物の圧力は、国内の農産物価格に影響し小麦の価格体系を歪め、さらには現行食糧管理制度の機能を揺るがしており、また、他方、従来からの日本農政の伝統であった食糧増産対策の緊急度を低からしめ、食糧の海外依存思想をようやく強からしめている。従来からの食糧の国内自給度の向上、ならびに農業所得の維持等の原則がゆさぶられてきたわけである。それのみならず余剰農産物見返り円による米国の日本における小麦市場の開拓措置も、内地米の領域に対する、外国小麦の攻略であり、いずれにしても食糧増産を中心とした今後のわが農政はますます多事多難となるであろう。」
国際分業論の兆しを厳しく批判したこの論文は、余剰農産物受入の推進論者であった河野農相の耳に入り、配布を禁じられたと早稲田氏は記している。
この論文が書かれたころ、あの“小麦のキッシンジャー”ことリチャード・バウム氏は幾度も来日し、農林省などの政府機関を訪ね回って、アメリカ小麦宣伝の大キャンペーン計画の根回しに取りかかっていた。
この論者が指摘したとおり、「米国の小麦市場開拓措置が内地米の領域に対する、外国小麦の攻略」となるまでに、そう長くはかからなかったのであるー。

 

(3章ここまで)

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