第2章 ワシントンの意図

※ネット上の情報を繋いでいるため、書籍と内容が全て一致していないことをご了承下さい。

・強調したい部分は赤字
・訳注はオレンジで示します
・写真は「食卓のかげの星条旗」から私が挿入したものです

ワシントンの意図

 

余剰農産物小麦を売り込め

20年前に皇太子ご夫妻を熱狂的に迎えたポートランド空港から、私たちは首都ワシントンに向けて飛び立った。あの“小麦のキッシンジャー”氏とのインタビューから、PL480が1954年にアメリカ議会を通過した「余剰農産物処理法」のことだと知った。その時の大統領はアイゼンハワーで、農務長官はのちに日本までキッチンカーの視察にやってきたベンソンであったという。バウム会長は「あのPL480の制定がなければ、今日の日本市場は生まれていなかっただろう」とまで言った。
私たちのワシントン訪問は、このPL480の制定に関わった人物を捜し出し、当時のアメリカ政府がどんな狙いで「余剰農産物処理法」を通過させたのか、そしてバウム氏たちの民間の市場開拓の背後に、どんなアメリカの国家意志が働いていたのかを調査するためであった。
私たちの乗った飛行機は、ロッキーの山並みを越え、途中でユタ州ソールトレイク・シテイにいったん着陸した。大塩湖とモルモン教(キリスト教とは全く異なる悪魔教と言われています)の総本山があることで知られる町である。PL480を立案したベンソン農務長官はこの町の出身で、熱心なモルモン教徒であったという。
実は当のベンソン氏は80歳の高齢ながら今も元気でこのソールトレイク・シテイに住んでいた。残念ながら、私たちはその事実を、アメリカ取材の最終日に知ったのである。30分ほどの待ち時間を空港内で過ごして、私たちはこの重要な時代の証言者がいる町を離れた。
飛行機はアメリカ最大の穀倉地帯である中西部諸州を飛んで行く。雲の切れ目から臨む眼下の風景はどこまで行っても緑であった。
1976年、アメリカが建国200年を祝った年に私はこの中西部の農業地帯を2か月にわたって取材したことがあった。北はモンタナ州でのカウボーイから南はオクラホマでの小麦農家まで、グレート・プレーンで会った農民たちは「アメリカを支えているのはわれわれだ」という自負を持っていた。カンサス州のセラーズという農民は、地平線まで届きそうな広大な畑を耕すために、徹夜でトラクターを運転していた。毎朝、穀物相場をラジオで聞き、自分の穀物は自分で販売の時期を決断する。ある時、セラーズ氏は「今日、これから、うちの小麦の三分の一を売るぞ」と言い、町の組合事務所に出かけて、われわれの目の前でポンと500万円相当の小麦を売却してしまった。その帰りに農機具販売店に立ち寄り、今度は420万円ほどの中古トラクターを買ってそのまま自分で運転して帰った。この時の取材で、私は底知れぬアメリカの農業パワーを草の根の現場から見せつけられた思いがした。
アメリカは農業大国である。人口のわずか4パーセントの農民が、全アメリカ国民のみならず、世界の胃袋を満たしている。農産物が稼ぎ出す貿易黒字額は100億ドルを超え、巨額の石油輸入による赤字を埋め合わせる最大の輸出商品になっている。その中でも小麦はトウモロコシ、大豆と並ぶドル箱である。アメリカは自国で生産した小麦の約60パーセント(3000万トン)を輸出し、一国で世界の小麦貿易量の半分近くを占めているのである。そうした実績がアメリカ農民の自負と発言力を支え、大統領選挙に勝つためには中西部の農民票をおさえることが不可欠だとまで言わせる根拠になっている。
アメリカ農務省は、こうした農民の利益を代表し、全世界をにらんで数々の政策決定を行ってきた。PL480(余剰農産物処理法)も、その中の一つであったにちがいない。

アメリカ農務省

あらゆる政府機関を集めた官庁の町ワシントンで、ひときわ威容を誇る建物があった。私たちの目指すアメリカ農務省である。国防総省にに次ぐマンモス官庁で、」この中に8000人もの職員が働いているという。星条旗が翻る正面玄関を入ると、カーター大統領とバークランド農務長官の写真が並んで飾られてあった。
国際関係を扱う海外農務局のオフィスを訪ねると、40歳くらいの気さくな感じのダドニイという広報官が待ち受けていた。前もって駐日アメリカ大使館を通じて、農務省内の撮影などを依頼してあったからだろう。
ダニドイ氏は、「では、参りましょう」と立ち上がり、農務長官室から職員食堂まで、省内の各所を案内してくれた。海外農務局の小会議室では、世界作況分析委員会のスタッフが世界地図を広げて討論をしていた。この日は海外の柑橘類の成長状況と市場動向を分析しているとのことである。地図上には10枚ほどの小さな紙片がピンでとめられてある。よく見ると、ソ連や中国、ヨーロッパ諸国など重要地域の最近の気象状況と作況が簡潔な文章でタイプされていた。日本の上には紙片が無かった。

「こうした情報はどこから入ってくるのですか」 この素朴な質問にダドニイ氏はこう答えた。
「わが海外農務局からは、世界64か国の大使館に100人を越えるアタッシュ(農務官)が派遣されて情報収集にあたっています。日本には主席農務官をはじめ、5名が常駐しています。彼らから送られてくる報告書は、定期的なものから随的なものを含めると、1年で1万通を優に越えるのですよ。その上、最近ではランドサット衛星で写した写真がNASA(米航空宇宙局)から送られてくるようになりました。私はその方面のプロではありませんが、衛星写真をコンピューターで分析するとかなり精度の高い情報が得られるようですよ。」
私は、あの穀物危機の時にささやかれたアメリカの“食糧戦略”という言葉を思い起こしていた。OPECが石油を武器に使ったように、アメリカは地上と空からの情報収集によって、食糧をいつでも戦略物資として発動させるフリー・ハンドを持っているのではないか。実際のところ、アメリカ農務省がはじき出す外国の農産物の収穫予想は、時として当事国よりも早く、しかも正確であったりするという。
ひと通り、農務省内の撮影を終わって海外農務局のオフィスに戻ると、広報課長のドン・ルーパー氏と市場開発計画部の日系人ジェミー・イソ氏が座に加わった。「ベンソン長官時代のPL480が生まれたいきさつを知りたい」と本来の取材目的を話すと、彼らは一様に肩をすくめた。
ルーパー課長がこう言った。
「残念ながら、それはあまりに昔の話です。私がこの中では一番古いが、当時はまだ駆け出しでしたからよく分かりませんし、法案の作成にあたった人たちは皆、退官してしまいました。特に長い共和党政権から民主党のカーター政権に変わった段階で、農務省幹部はいっせいいに入れ替わったばかりですから・・・・」
日系人のイソ氏が日本語で助け船を出してきた。
「それでも何人か農務省OBの心当たりはありますよ。たしか日本での市場開拓に関係した人もいるはずですから、あとで紹介してしてあげましょう」
少々気落ちしている私を見て、ダドニイ広報官が「お役に立つかどうか分かりませんが、このフィルムをみてください。」と言った。
ダドニイ氏は、かつて農務省の映画製作部門におり、日本にも何度か撮影に行ったことがあるという。彼が持ち出してきた16ミリフィルムは、1967年頃に撮影したもので、東京の伊勢丹デパートで開催されたアメリカ農務省の物産展の模様が写っていた。デパートの社長らしき人物がテープ・カットを行うと、大勢の客がなだれこみ、ドーナッツを焼き上げる機械の前でおいしそうにこの小麦食品を食べている。オレンジ、レモンが陳列され、生きたヒヨコの入ったガラス・ケースに子供たちが群がっている。視察にやってきたフリーマン農務長官の婦人の顔もある。長官婦人に寄り添っている和服の婦人は、よく見ると日清製粉の正田夫人、あのミラーズ。ドーターの母親であった。(皇后美智子様の母親のこと)
「最近でこそ、こうしたPR映画は作らなくなりましたが、あの頃までは日本向けの宣伝活動を盛んにやったものです。いつでしたか『日本はアメリカ農産物のナンバー・ワンの買い手となった。日本人はこんなにもアメリカの食糧を食べるようになった。』という内容でテレビ用のフィルムを作成した記憶もあります。日本のプロダクションに依頼して、私が日本まで行って監督しました。3分ほどに編集してNBCかABCかがニュースとして全米に放送したはずです。最後の場面が、パンを食べる少年のクローズ・アップだったのをよく覚えています。農務省としては、海外の市場開拓の成果をアメリカの納税者に見せる必要があったのです」
ダドニイ氏の映画は、大変興味深いもんであったが、私たちが知りたいのはそれより以前の話であった。私たちは農務省を辞し、国立の映像資料があるナショナル・アーカイブに足を向けた。アイゼンハワー時代の農業事情を、古いニュース映画の中に探りたいと考えたいからであった。

野ざらしの余剰農産物小麦

ナショナル・アーカイブスのファイル棚で、片っぱしから農業団体のカードを引き出しては古いフィルムを見た。何本目かに写したフィルムは、いきなり野ざらしになっている穀物の山から始まった。
「太平洋のストックトン港では、倉庫からあふれた小麦が野積みになっています」
1945年2月のニュース映画はこう語り始めた。
「昨年夏から表面化した余剰小麦の問題は、ますます深刻なものになってきました。政府では、ハドソン河のリバティー船を臨時の小麦倉庫に代用してきましたが、この2月17日には新たに180隻の予備船を追加し、合計で350隻が思わぬ勤めを果たすことになりました」

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画面に映し出されるリバティ船は、第2次大戦で活躍した輸送船である。数百の船がつながれて並ぶさまは、さながら小麦格納船隊であった。映画のナレーションは更に続く。
「現在、政府が抱える農産物のストックは小麦、綿花、乳製品など合計で55億ドル(当時の約2兆円)にものぼります。このため政府が支払う倉庫代だけでも1日46億ドルに達しており、アイゼンハワー政権は早急に、この問題を解決する事を迫られています」それから何本目かにかけたフィルムは、議会でアイゼンハワーが演説しているものであった。索引カードによれば、同じ年の1月11日、農業特別教書の表明とある。この演説の冒頭で彼は「農業問題は現在、議会が今会期間中に審議する如何なる問題よりも、重大で複雑になっている」と述べて、さらにこう続けている。

「余剰農産物の処理は、これまでの単なる海外援助や災害救済の方式に頼っているだけでは十分ではない。第二次大戦をはさんで、アメリカの農業生産は革命的と言える飛躍を遂げた。これは、わが農民達が、より広範な食糧需要に応える力を国家に与えたということでまる。農務省は今や、国内のみならず海外にハケ口を拡大すべく、活動を強化しなければならない。来る予算教書において、私はこの目的を達成させるために、十分な予算手当を行うよう議会に要請するつもりである。」
熱弁を振るう大統領の斜め後ろには、若きニクソン副大統領の顔もあった。アイゼンハワーは海外市場の拡大に本腰で取り組む姿勢を明らかにし、つづいて海外市場の調査のために特別の使節団を欧州・アジアに派遣することを宣言している。

第二次大戦中、アメリカは小麦の生産力を飛躍的に高め、フル生産で連合国の兵糧をまかなった。戦後は食糧生産の回復しない世界諸国から援助の要請や購入申し込みが殺到した。それが一段落して、相場にかげりが見え始めると、今度は朝鮮戦争の勃発(1950年)で、穀物需要はいっきょに膨らんだ。しかし、ブームはそこまでであった。1953年、朝鮮戦争が休戦になると需要はまたたく間に冷え込み、そこへ53,54年の世界的な大豊作が続いたのである。既存の政府倉庫がパンクするのは当然であった。

アイゼンハワーの大統領就任は1953年1月であった。カンサス州の農村出身でもある彼にとって、余剰農産物の処理問題は緊急かつ最大の経済問題となっていた。
農業特別教書を発表してからちょうど一週間後の1月18日日、今度はベンソン農務長官の記者会見の模様が写し出された。多くの報道陣を前に。ベンソン農務長官はこう切り出した。

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「アイゼンハワー大統領は今日、今議会に提出する新法案を公表した。これは、友好諸国の経済強化を助ける目的で、10億ドル相当の余剰農産物を大統領権限で処分するという立法であり、農務省としても大歓迎である。」
あとでわかったことだが、これがPL480(余剰農産物の処理法)の発名乗りであった。法案の具体的内容が明らかになるのは、その数か月後のことである。」

大統領特命の日本視察団

農務省のイソ氏から紹介を受けて、ゴードン・ボールズという人物に会った。氏は農務省のOBで全日本製粉協会の専務理事を最後に引退したという。ボールズ氏は、出会い頭に、一冊の古ぼけた冊子を取り出した。

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(こちらがゴードン氏)
「これは、1954年4月に、私たちがアイゼンハワー大統領から任命されて、海外市場の視察に回った時の報告書です。当時、大統領はPL480の制定に熱心で、その立法を強固なものにするには、実際に余剰農産物を受け入れる国々へ出向いて、実状を把握させることが必要だと考えたのです。私たち35人のメンバーは、出発前にホワイトハウスに招かれて次のような激励をうけました」

アイゼンハワーは一行を前にこう述べたと、報告書は記している。
「諸君の重大な任務に対して、私は限りなき支援を惜しまない。第一の使命は、余剰農産物の貿易を発展させる方途を捜すことである。『アメリカの農産物をどの国が買えるのか、どうしたら売れるのか』その方策を開拓して来て貰いたい

こうして1954年の4月10日、視察団は、ヨーロッパ、南アメリカ、東南アジアの三班に分かれ、1か月の旅に出た。
「私は東南アジアグループの10人の中に加わりました。パキスタンやインドなど八カ国をまわって5月に東京に入りましたが、日本は特に印象に残っています。農林省など官庁の人々や業界の人々と会談をしましたが、当時の日本は米が足りなくて、しかも値が高かった。私はその時、全米製粉協会の輸出促進部長でしたから、小麦の輸出について特に関心を持っていました。
日本のドル不足という隘路(あいろ:狭き困難)さえ解決できれば、割安の小麦を米の替わりにどんどん売り込めると確信したものです。すでに日本ではマッカーサーが始めた学校給食が、かなりの小学校に広がっており、これは大変意味のあることだと意を強くしました。東南アジアの国々の中で日本が最も有望な市場だと私は報告しました」ボールズ氏は古い記憶をたどりながら話し続けた。
「あれから20年以上になりますが、私の判断に間違いはありませんでした。ただし残念ながら一つだけアテが外れたことがあります。私の個人的な狙いは小麦だけではなく、小麦粉製品の輸出拡大にありました。当時の日本の製粉会社は、まだ規模も小さく技術面でも遅れていました。
しかし、その後、目覚ましい発展を遂げたため結局製品輸出の夢は破れてしまったのです。あの頃は、小麦食品全般を海外に普及させようという点で、小麦生産農民との共通利害がありましたから、全米製粉協会は、オレゴンの小麦連盟ともよく共同して宣伝活動を行ったものです。」
ボールズ氏はリチャード・バウム氏のことを良く知っていた。いっしょに日本に出かけたこともあるが、最近ではほとんど会っていないと言う。
「さてこの報告書についてですが、これは使節団が全員帰国したのちに、私も加わってまとめあげたものです。大統領の要請に応えて、いま何が余剰農産物処理の障害になっているか、どうしたら販売を拡大できるか、さまざまな提言がかいてあります。7月に成立するPL480には、われわれの提言が多く取り上げられました。何と言っても、一番重大な点は、諸外国のドル不足を指摘したことです。食糧はノドから手の出るほどに欲しくても、それを買う外貨を持たないという国が沢山あったのです。PL480はこの隘路を克服した画期的な法律でした」
ボールズ氏は見せられた大統領使節団報告書は、「訪問国の印象記」と「輸出拡大への提言」の二部構成になっていた。大変長文なので要点を抜粋しておこう。

世界の農業生産高は、全体で見ると戦前水準の115%になったが、地域によってばらつきが見られる。北アメリカは150%で最も高く、西欧も戦前水準をはるかに超えているが、東欧、ソ連、そして極東はどうにか戦前レベルに回復した程度である。アメリカの農産物輸出にとって深刻な脅威は、諸外国で食糧自給率を高めようとする気運が強まってきていることである。各国政府は補助金・支持価格を設けて国内の農業者を海外との競争から保護しようとしている。これは戦後体験した飢餓・配給統制の記憶が生々しいためでもあるが、重大な点はこの傾向にドル不足が拍車をかけていることである。我々が訪れた多くの国が外貨不足に悩んでいた。食糧を輸入したくても、支払う外貨がないのである。
そのため各国政府は極端な輸入規制をしていたり、ドル使用の選択的承認制を取ったりしている。こうしたドル不足に由来する自給率向上主義・農業保護主義は放置しておくと、わが国の農産物市場拡大に大きな障害となるだろう。
アメリカで余剰となっている農産物と同じものを栽培している外国農民の間には、アメリカが世界市場にダンピング輸出するのではないかという大きな恐れが広がっている。(ダンピングとは格安にして投げ売りすること)
もしそうなれば、国際相場を暴落させ、農民はもとより、いまストックを保有している商社や食品加工病者にも巨額の損害を与えることになる。こうした不安が輸入国の購入意欲をそぎ、自家保有を通常より少なくさせる要因になっている。

輸出拡大への提言
1,通貨の互換性を確保すること(IMF活動の強化)―以下略
2,競争的輸出価格の設定―以下略
3,外貨での農産物販売
我々は外国通貨で余剰農産物を販売する立法をすみやかにおこなうことを提言する(これがPL480につながるー筆者駐)。諸外国に置いてドルが不足し、通貨の互換性が十分でない現況下では、通常の商業貿易をそこなわない範囲において、受け入れ国の現地邦貨で支払わせる農産物販売を行うべきである。
4,輸出クレジット(のべ払い)―以下略
5,海外への販売促進活動
輸出拡大のためには、合衆国のあらゆる政府機関・民間組織の統合した努力が必要である。農務省海外農務局は農民組織や産業団体を巻き込んで、海外市場を分析し、市場の獲得・維持のための様々なサービスを提供すべきである。同時に民間の業界団体は海外貿易のエキスパートをいつでも海外農務省に参加させられる体制を取り、それぞれの業界内でも市場開拓セクションの機能と権限を高めるよう努力すべきである。
6,戦略物資とのバーター
農産物ストックは、変質しやすく貯蔵コストも高くつく。そこで買いが戦略物質で、変質せず保存も安上がりなものとバーター貿易で交換するのも一つの方法である。また海外の援助救済計画に、最大限の余剰農産物を含めることも重要である。(バーター貿易とは物々交換のこと)

この他報告書では、「海外市場のためには、まず海外の消費者の嗜好を徹底的に分析する」必要性を指摘し、最後に「どんなことがあっても、ダンピング輸出を行ってはならない」とクギをさして結んでいる。

「PL480」の成立

ボールズ氏たちの提言を受けてPL480は、1954年7月16日、アメリカ弟3議会で可決、成立する。正式名称は「農業貿易促進援助法(The Agricultural Trade Development and Assistance Act)と言ったが、人びとは「余剰農産物処理法」とズバリの名称で呼んだ。
同法は3つの条項から成っていた。
1,余剰農産物の外国通貨による売却。販売代金はアメリカが当事国内で現地調達などに一部使用するが、残りは当事国の経済強化のための借款とする。
2,災害の救済などのための余剰農産物の無償贈与。
3,貧窮者への援助および学校給食に使用することを目的とした贈与。外国産の戦略物質・サービスとのバーターも含む。

この中で最も重要なのは第1条項である。平たく言えば、この法律によって受け入れ国はドルを使わなくても農産物が買えることになった。例えば日本なら円で支払えばいい。しかも、代金の一部はアメリカが日本国内での買い付けなどに落としてくれるし、残りの代金は後払いで、さしあたり日本国内の経済開発に使えると言うところがミソである。“必要は発明の母”と言うが、うまいことを考えたものである。

このPL480は、余剰農産物の重荷に耐えかねたアイゼンハワー農政の切り札であった。大統領は、この法律を誕生させるまでに、海外使節団を送り出したほか、60以上の農業団体、500人以上の農業指導者から意見を聞いたという。また、この第83議会には、これと似たような趣旨の法案が87も提出されたと言うから、いかに官民こぞって余剰農産物処理に懸命であったかがうかがわれよう。

この頃、国際小麦市場では、主要輸出国同士が、価格ダンピングの泥仕合を演じ始めていた。2月にカナダがブッシェル当たり7セントの値下げを発表すると、アメリカ政府も輸出補助金を追加してこれに対抗し、さらにオーストラリアも参戦してきた。小麦の国債カルテル的存在であった国際小麦協会からは、大輸入国であるイギリスがすでに脱退していた。

PL480は、こうしたダンピング合戦から余剰農産物を守る防衛的な狙いも持っていた。一方、余剰処理で生まれた資金をアメリカの世界政策に利用しようとするのが、積極面での狙いであった。したがって、相手国への借款とはいっても、その使途については両国政府が「自由陣営の経済強化」につながるように前もって話し合って取り決めるという但し書きをつけた。“冷たい戦争”のさなかである。PL480の運用は、「共産国の封じ込め」という大目的のための枠の下にあった。その前のMSA(Mutual Security Act-相互安全保障)援助でも、アメリカはイタリアで現地買い付けを行うにあたって、ある、精密機械工業にいったん発注したにもかかわらず、工場内に共産主義者がいるというだけの理由でこれを停止したことがあった。また1949年、大不作のインドが食糧援助を求めた時も、インドの親中国政策を理由に、アメリカはすぐにその要請に応えなかったのである。

そしてもう一つPL480には重要な狙いがあった。余剰農産物の販売代金の一部は、アメリカが受け入れ国の中で現地買い付けなどに使うほかに、アメリカ農産物の市場を開拓するためにも使うことが決められていた。

アメリカは一時的に余剰農産物をさばくだけでなく、その処理で得た資金を使って、先ざきの農産物需要を喚起する手がかりを作ろうと考えたのである。いわば将来のために、相手国内に「市場開拓」の種を播いていくことが狙いであったが、これがあとで物を言うことになる。バウム氏や曽根氏が話していた農務省資金は、ここから捻出されることがPL480で権威づけられたのである。

PL480で処理される余剰農産物は総額で10億ドル(当時の3600億円)。これが向こう3年に分けて使われることになった。外国通貨による売却の他にも、無償で支給される贈与の条項もある。この年の秋、各国政府からワシントン詣でがあいついだ。もちろん、その中に日本国代表団もいた。

(2章ここまで)

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