第1章 日本人の胃袋を変えた男たち

※ネット上の情報を繋いでいるため、書籍と内容が全て一致していないことをご了承下さい。

・強調したい部分は赤字
・訳注はオレンジで示します
・写真は「食卓のかげの星条旗」から私が挿入したものです

日本人の胃袋を変えた男たち

 

美智子妃お手植えのバラ

ー略ー・・・・

オレゴン州はアメリカ西部の代表的な穀倉地帯で、特に小麦生産は州経済を支える大黒柱であった。ところが、この小麦が第二次大戦後に大量に余り始め、その海外輸出の拡大が地元農民の最大関心事となった。アメリカ西海岸から最も近い国である日本が、有望な市場としてマークされ、ひそかな対日工作が進みました。

伝統的な米食民族の国に小麦を売り込もうとするアメリカの計画に、当時急成長を遂げつつあった日本の製粉資金は協力を惜しまなかった。「ミラーズ・ドーター」は、まさにそうした時代にはなばなしく登場した。瑞穂の国の王女に小麦の指導者の令嬢が選ばれたのである。小麦の対日輸出工作に期待をかけていたアメリカの関係者にとって、どんなにか心強いできごとであったことだろう。

(訳注:ミラーズ・ドーターとは「粉屋の娘」と言われており、それは皇后美智子様のこと。日清製粉の社長正田英三郎の娘が美智子様)

・・・略

オレゴン州で生産される小麦は、実にその90%が、この港から日本などアジア諸国に輸出されるのである。

小麦のキッシンジャーとキッチンカー

マーケット・ビルの9階、スイート985。ここにアメリカ西部小麦連合会の本部がある。会長のリチャード・バウム氏(56歳)に会った。

バウム会長は、連合会発足以来ずっと、この本部からすべての出先機関に指示をあたえ続けてこた。私たちが訪ねた時も、ちょうど東京事務所宛のメッセージを小型テープに吹き込んでいる最中であった。会長室の壁には東南アジア各国の民芸品が一面に飾られてある。富士山を描いた置物、日の丸をあしらった扇子、日本の製粉会社からの感謝状、それに学校給食で楽しそうにパンを食べる日本の子供の写真もあった。テープの収録を終え、それを秘書のタイピストに渡すと、”小麦のキッシンジャー”は私たちの方に向き直った。

「日本へは少なくとも年3回は出かけています。かれこれ60回は行っていますが、こうして日本のジャーナリストとお話しするのは初めてです」

スクリーンショット 2015-11-24 19.02.19

バウム氏はにこやかに話し始めた。だが、そのタカのように鋭い眼は笑っていない。

「まずこの数字を見て下さい。アメリカの小麦輸出は日本へ320万トン、韓国へ140万トン、フィリッピンへ70万トン・・・。アジアは小麦だけで20億ドル(現在(昭和54年)4500億円相当)も稼がせてもらう大市場になりました。このほとんどはわれわれが、アメリカ農務省の援助を受けて新たに開発したものです。この膨大な需要が、アメリカの小麦を支える効果は測り知れません。その中でも、一番優等生はあなた方の国、日本です

バウム氏が率いるアメリカ西部小麦連合会は、東南アジア市場開拓に関心を持つ西部諸州の小麦生産者が、海外への販売促進機関として設立した民間の組織である。
消費国の政界、官界、そして産業界と密接なパイプを築き、さまざまな消費宣伝活動を通じて側面から小麦輸出を伸ばして行くのがその任務である。1947年(昭和22年)、オレゴン州単独の組織として誕生したこともあって、本部はポートランドに置かれているが、首都ワシントンにも常勤副会長が事務所を構え、政府・議会との工作にあたっている。海外事務所は、東京、シンガポール、ソウル、タイペイ、マニラ、ニューデリーの6か所で、それぞれにアメリカから専任の代表を派遣し、現地のスタッフも数人雇いあげて活動してきた。

「今から20年前、私がオレゴン州の小麦生産者から海外市場の調査・開拓を委ねられた当時はすべてが手探りの状態でした。長い間、米を主食にしてきた民族に、小麦食品を定着させるのは容易なことではありません。小麦を売り込む前に、まずパンやめん類、ケーキなど小麦食品の味を覚えさせることから始めなければならなかったのです。私たちはさまざまな宣伝方法を考えましたが、一番印象に残っているのは、日本で行ったキッチンカーのキャンペーンでしょう。あれだけ劇的な成果をおさめたプログラムは他にありませんでした」バウム氏は懐かしそうに語った。

キッチンカーとは、昭和31年から36年(1956〜61年)にかけて日本国全体の農村を巡回した栄養改善車のことである。

スクリーンショット 2015-11-24 19.06.27

改造した大型バスにプロパンガスから調理台まで一切の台所用具を積み込んで、どんな山奥や離島までも出向いては料理の実演講習を行った。その6年間に全国2万会場をまわり、200万人の参加者があったというから、ご記憶の方も多いことだろう。

スクリーンショット 2015-11-24 19.05.54 スクリーンショット 2015-11-24 19.13.56 スクリーンショット 2015-11-24 19.12.14 スクリーンショット 2015-11-24 19.12.32

このキッチンカーが、アメリカの小麦を宣伝するための事業であったとバウム氏は断言した。たしかにキッチン・カーのスローガンは「粉食奨励」であり、現場で指導に中った栄養士達は、「米偏重」の粒食をやめて、もっと小麦を中心とした粉食を中心とした粉食を取り入れるように説いていまわった。しかし、私たちが伝え聞いていたキッチンカーは、あくまでも政府・厚生省が国民の栄養水準を高めるために独自に行った日本の事業であったはずである。私たちの疑問をよそに、バウム氏は話を続けた。

「キッチン・カーの現場には何度も行きました。田舎のデコボコ道をスピーカーで音楽を流しながら走ると、稲刈りをしている農民までがふりむきました。村の公民館の前に駐車すると、野良着のままの主婦達が続々とつめかけるのです。小麦を使った様々な調理を実演したあと、みんなに試食させると口々にこういいました。『オイシイデース』『モットモット』ーと」 バウム氏は、「おいしいです」「もっともっと」のところだけはカタコトの日本語で離した。小麦食品の普及を狙った活動を見に行って、一人ひとりの消費者の確実な手応えを感じ取ったことが、よほどうれしかったのだろう。事実、日本政府は、このころから加速的に小麦輸入を増やしてゆく。「モットモット」と叫んだのは、キッチンカーに群がった庶民だけではなかった。

キッチンカーは、私たちが具体的プログラムとして日本で最初に取り組んだ事業でした。つづいて学校給食の拡充、パン産業の育成など、私たちの初期の市場開拓の全勢力を日本に傾けました。ターゲットを日本に絞り、アメリカ農務省からの援助資金を集中させたのです。その結果、日本に小麦輸入は飛躍的に伸びました。1960年の250万トンが、いま5550万トンになり、そのうちアメリカ小麦のシェアは30%から60%にまでなりました。日本は私にとって事象開拓の成功のお手本なのです」 ”小麦のキッシンジャー”はまるで遠い過去の歴史を物語るかのようであった。  「今になって、日本では『米を見直す』キャンペーンを始めていることは承知しています。しかし、すでに小麦は日本人、特に若い層の胃袋に確実に定着したものと私たちは理解しています。今後も消費は増えることがあっても減ることはないでしょう。私たちの関心は、とっくに他のアジア諸国に移っています。日本の経験で得た市場開拓のノウハウを生かして、この巨大な潜在市場に第二・第三の日本をつくって行くのが今後の任務です。日本のケースは、私たちに大きな確信を与えてくれました。それは、米食民族の食習慣を米から小麦に変えてゆくことは可能なのだということです」 聞いていて慄然とする話であった。バウム氏は、日本はすでに開拓を完了した市場であるとも言った。いまとなって、誰が騒ごうとビクともしない。日本人の胃袋の中に、知らぬ間に住み着いた小麦は、すでに勝利の星条旗を高々と掲げているのである。「もう何もかもお話ししてもいい時期でしょう。何でもお聞き下さい」アメリカの対日小麦輸出戦略を最前線で指揮してきたリチャード・バウム氏の口から、次々と新しい真相が語られ始めた。オレゴン州ポートランド、ブラックボックスの9階。私たちのインタビューは、短時間で終わりそうになかった。 」

小麦が米を食う

昭和54年6月(1979年)、今年も東京九段の武道館に1万人の農民が集まった。いつものように要求米価をかかげた農民代表が次々と決意表明に立つ。しかし、会場の一人ひとりの農民の顔は暗い。何一つ波瀾も起きない。

誰かがつぶやいた。「今年はまるで葬式みたいな米価大会だ」--と。
日本の主食の座が、その根底からゆらいでいる。米はいまや、国鉄・健保とならんで3K赤字のレッテルを貼られ、日本経済の「お荷物」とまで言われるようになった。昭和53年から政府は二度目の減反政策をとり、今年はさらに農協自身が「うわ載せ」減反を推進したが、それでも米は余り続けている。古米在庫はおよそ700万トンにのぼるものとみられ、その処理に要する財政負担は1兆円をこえるという。

農林水産省はついに聖域「食菅法」に手をくだし始めた。青嵐会農政を中川一郎氏から53年10月に引き継いだ渡辺美智夫農相は、「お中元で米を贈れないようないような法律は間違っている」と発言し、食菅法手直しをにおわせた。そして、「まずい米まで一律の値段で買うことはできない」と、政府買い入れに品質間格差を初めて持ち込んだ。北海道、青森などの生産者にとっては、事実上の米価引き下げ決定であった。

天下の農協も今はただ押し黙るだけのようである。700万トンの余り米という巨大な影の存在が、いわば「問答無用」とばかりに、口を封じてしまっている。日本最後の自給食糧である米を、ひたすら作ってきた農民達は、怒りのやり場もなく、ただ、事態のなりゆきを呆然と眺めるしか術がなくなってしまった。

いったいなぜ、こうなってしまったのだろう。米はどうして、これほどまでに余り始めたのだろうーー。
識者は「作りすぎるから余るのだ」と、いとも簡単に断を下す。たしかに、ここ10年来の稲作は多少の天候不順には左右されないものになった。
また他の作物と比べて、米は作りやすい上に価格が保障されされているのも事実である。そうした米づくりの相対的有利性が、いわゆる「日曜百姓」まで、片手間稲作にかりたてている原因にもなっている。しかし、米の過剰はこうした生産面の構造変化だけがその原因ではない。圧倒的な消費面の「米離れ」現象が過剰に拍車をかけていることを見逃すことはできない。

戦前の日本人は1年に135キロの米を食べた。戦中・戦後の食糧難時代に、その量はいったん100キロ以下まで落ち込んだが、農業生産が回復した昭和30年代後半には、一人当たり117キロの水準にまで回復した。

しかし、その後は急カーブの低落を続け、今日、日本人一人当たりの米消費量は、わずか85キロにすぎない。この15年間に何と30%近くも減ったのである。そのため、人口は増えたにもかかわらず、米の年間総需要量は200万トン近くも落ち込んだ。しかも、この傾向は歯止めがかかりそうにない。

『参考
国内の一人あたり米消費量
1965年112キロ
1975年 88キロ
1985年 75キロ
1995年 68キロ
旧食糧庁米麦データブック1998より
現在は60キロも割り込んでいる。』

こうした、米離れの原因はどこにあったのだろうー。
①激しい肉体労働が減ったために、昔のように一升飯を食らう人がいなくなったとか
②夫婦共稼ぎが増えたため忙しさに追われて簡便なインスタント食品に頼ることが
多くなったちか、
様々なことが言われる。また
③「食生活の高度化」による当然の現象と説明する人も多い。

所得が向上するにつれて、人間は穀類デンプン質の摂取を減らし、動物性蛋白質などの副食を多く摂るようになるものであり、米の消費が減ったのはこの必然の帰結であるというものである。確かに戦後、肉類や野菜類など副食の増大には目を見張るものがある。

だが、果たしてそれだけであろうか。ここに見落とせない一つの事実がある。
日本人の食生活に占める主食穀物のウエイトは減少したが、その中で小麦だけは着実に伸びている。戦前、国民一人当たりの小麦消費量は8.5キロで米の6パーセントにすぎなかった。それがいまでは4倍の32パーセントに増え、米の40パーセントにも及ぶようになった。

副食が主食デンプン質に食い込んだだけでなく、その限られた主食の中で米は小麦に食われたのである。しかも、その小麦の中で国内産はいつの間にか影をひそめ、いまや9割以上が外国産で、その6割がアメリカ小麦である。

戦後の食生活の変貌の影には、単なる自然現象では片づけられない人為的な何かがあったに違いない。今日の米過剰をもたらした重大な要因が、そこに隠されているかもしれない。

私達は、日本人の主食の座に小麦が如何にして食い込んできたのかを調べてみようと決心した。小麦の最大供給源はアメリカである。謎解きの鍵もアメリカにありそうだと考えるのは自然である。

これまでも何度か、アメリカの謀略説を聞いたことがあった。
米過剰に悩む農民達は、「あのマッカーサーの学校給食がくせものだった」とか、「小麦贈与に騙された。ただほど高いものはない」などと感情論をむきだしにする。

左翼系の機関誌はいつもきまって「安保体制の下で、アメリカは日本人の胃袋をその傘下に組み込んだ」と主張している。それならば、実際のところ、アメリカはいつ、誰が、どんな方法で日本にどう働きかけたというのだろうか。

私達は、あらゆる予断をいったん排除して、一つひとつの事実と証言の積み重ねの中から、アメリカが戦後の日本食糧史にどうかかわってきたのかを解明したいと考えた。手元にある参考文献は少なく、心もとないスタートであった。」

赤坂のアメリカ小麦連合会

私たちの取材は、小麦輸入に関するすべての機関を訪ねて回ることから始まった。輸入小麦の買い付けを一手に握る農林水産省食糧庁。シカゴ相場をにらんで海外小麦を手当し食糧庁に入札方式で納める商社。食糧庁から払い下げを受けた原麦を小麦粉にして製パン・製めんなど二次加工業者に販売する製粉メーカー。そうしたさまざまな関係者と話しているうちに、一つの見知らぬ組織の存在が浮かび上がってきた。

アメリカ小麦連合会。ポートランドに本部を持つアメリカ西部小麦連合会が東京に設けた出先機関である。事務省は、駐日アメリカ大使館に近い東京・赤坂のビル8階にあった。入り口のパネルには「私達は日本の小麦産業に奉仕する全米小麦生産者の代表です」と書いてある。忙しそうに英文タイプを打つ日本女性が三人にて、その奥には駐日代表らしきアメリカ人の姿も見え隠れした。私達は、駐日次席代表の曽根康夫氏(63歳)のもとに案内された。

スクリーンショット 2015-11-24 20.14.28

スクリーンショット 2015-11-24 17.27.52
50年代の前半としか見えない精悍な紳士で、頭の回転も早そうである。この人物がアメリカ小麦を日本に売り込む立役者の一人であったとは知る由もない。あとで分かったことだが、曽根氏は戦後のGHQの公安畑で働き、のちには山梨県知事の直属通訳としてオネスとジョン事件の舞台でも活躍した経歴を持っていた。昭和35年に乞われてこの道に入って20年近い。この事務所の事実上の責任者であり、青嵐会議員の中尾栄一氏とも同郷の関係で親しいという。
「パネルにも書いてあるように、日米の小麦関係者の間をとりもつのが私達の役目です。今では商社や製粉業界などに小麦の情報サービスを提供するのが主な仕事になりましたが、以前は盛んな宣伝活動をやったものです。小麦市場を開拓するために、キッチン・カーをはじめ、全国パン祭りや学校給食の普及運動など数百の普及運動など数百のプロジェクトをここで進めてきました。活動資金ですか?それはアメリカ農務省から出たのです
曽根氏は、意外なほどに淡々と語った。この年の6月、小麦産地のノース・ダコダ州で、「輸入大国・日本に感謝する夕べ」が開催された。曽根氏は食糧庁幹部や製粉・製パン業界の代表を引率してこれに参加し、帰国したばかりであった。1年に最低3回はアメリカに出向くという。「今回のパーティは、州知事が主催する盛大なものでした。州知事から食糧庁長官に、州旗がプレゼントされ、お返しに食糧庁からカブトが贈られました。私事ですが、日本の小麦貿易のかけ橋になったとして、私は感謝状を頂きました。大変名誉なことで、昨日も日清製粉の正田英三郎会長に報告してきました。製粉の社長さん方とはまた近いうちに会わねばなりません。麦価改定の米審がもう近いですからね」私達と話す合間にも、曽根氏にはひっきりなしに電話が入る。氏はある時は日本語で、またある時は流暢な英語でこれをざばいていた。
「早いもので、連合会が活動を開始してもう20年以上もなりました。そう言えば、20周年を祝ったときのパンフレットがありますよ」

曽根氏が持ってきたのは小麦連合会の機関誌のバック・ナンバーで、それによるとアメリカ小麦連合会の20周年行事は昭和51年11月30日、東京麻布台のアメリカン・クラブで開かれていた。出席者の顔ぶれを見て、私たちは目を見張った。
ポートランドからあのバウム氏がきているのは当然としても、アメリカ農務省からハッチンソン輸出促進課局長が顔を見せ、駐日アメリカ大使のホジソン氏も招かれている。
日本側からは食糧庁・大河原太一氏(のちに農林事務次官)が列挙し、農林大臣・大石武一氏までが祝辞を寄せている。
このほか、アメリカの小麦生産者から日本商社、製パン業界まで総勢200人が参加する大パーテイーであった。祝賀会は、バウム会長と大河原長官の記念講演で始まり、食糧庁と製粉協会からアメリカ小麦連合会へ感謝状が送られて祝宴に入った。この席で大石農林大臣は次のような祝辞を送っている。
「アメリカ小麦連合会は、1956年にオレゴン州小麦栽培者連盟の東京事務所として以来、終始一貫して、わが国に対する小麦の安定供給に務められるとともに、貴国とわが国の小麦貿易関係者が相互理解する上に非常な貢献をなされましたことは、私を初めとする関係者一同ひとしく、高く評価するところであります。」

ここまでは通りいっぺんの外交辞令ともとれるが、つづいて大石大臣は個人的な深い関わりを自ら披瀝している。

私事を申し上げて恐縮でございますが、実は私、1956年米穀農務省とオレゴン小麦栽培者連盟の招待による第一回小麦視察団の団長として訪米いたしまして、アメリカ国内の各地において暖かい歓迎を受け、その際お会いした人々と、現在においても個人的に親しくお付き合いを続けさせていただいております。私の訪米以来20年が経過し、アメリカ小麦連合会が20年周年記念を催すにあたり、私が農林大臣に在任していることは奇しき因縁というほかはなく、もことに感慨無量であります・・・」
1956年と言えば、バウム氏たちが対日小麦市場開拓に乗り出し、キッチンカーが動き出した年である。この年の夏、当時農林政務次官であった大石武一議員は、桑原食糧庁業務部長、円尾日清製粉常務、長谷川日本製粉常務を伴って5週間のアメリカ小麦事情視察を行った。費用はアメリカ持ちであった。その後、家族ぐるみの交際をしている相手とは、オレゴン州のM・ウエザーフォード氏のことで、氏は対日市場開拓を発案したアメリカ農民の指導者であった。

スクリーンショット 2015-12-01 15.27.31
アメリカ小麦連合会の20周年行事は、太平洋をまたいだ壮大な小麦人脈の存在を浮かび上がらせた。東京・赤坂の貸ビルの一角で、そのオフィスの小さな構えからは想像もつかない遠大な計画が進行していたのである。」

キッチンカーの謎

キッチンカーは日本政府が行った事業ではなかったのですか?」

アメリカの小麦連合の曽根氏に、ズバリと聞いた。
「たしかに日本の厚生省の協力はありましたが、あれは当連合会の前身であるオレゴン小麦栽培者連盟が財団法人の日本食生活協会と契約して行ったわれわれの事業です。資金はアメリカ農務省から出ました。当時アメリカではPL480(Public Law 480)が制定されたばかりで、この公法にもとづいてアメリカ農産物の海外市場開拓に予算がつくようになったのです。キッチンカーについて詳しく知りたければ、日本食生活協会に行ってみたらいいですよ。厚生省の外郭団体で、たしか当時の関係者もいるはずです」

わたしたちは曽根氏の勧めにしたがって、東京・有楽町の日本食生活協会を訪ねることにした。副会長の松谷満子女史は気安く取材に応じてくれた。

スクリーンショット 2015-11-24 19.31.02
「キッチンカーは、わたしどもが厚生省の後援を受けて運営しました。この協会はそもそもキッチンカーのために設立されたのです。運営資金ですか?それはもう昔の話ですから・・・」
言いづらそうなようすであったが、松谷女史は資金のほとんどがアメリカからでたものであることを認めた。
「それは信じられないほどの気前の良さでした。ピカピカの大型バスをポンと12台買ってくれたのですから。1台が400万円とか言っていました。そのほか、キッチンカーの運営には運転手さんの日当とか、ガソリン代やらで1台に1月60万円ほどかかりましたし、パンフレットもたくさん作ってくれました。そうですね、たしか6年間で1億数千万円かかったとか聞いています」
「それでは、キッチンカーはアメリカの小麦を宣伝するための事業だったのですか?」私たちは単刀直入に聞いた。
いやそうではありません。これはあくまで国民の栄養改善を目的に、厚生省と当協会が行なったもので、その点についてはアメリカ側も了解済みでした。粉食を奨励し、栄養改善を説けば、自然と小麦の消費は増えるわけでしょう。それがわかっているから彼らは、キッチンカーの運営をすべて私どもに任せたのです。ただ、実施する調理献立の中に最低一品だけは、小麦を使った物(大豆も)を入れてくれとは言われました。条件らしき物はそれだけです。キッチンカーは大変な評判を呼びましたから、アメリカの関係者も喜んだようです。バウムさんというオレゴン州の小作生産者団体の役員さんが何度も来ましたし、農務長官のベンソンという人が来てじきじきに視察し、キッチンカーに乗ってご満悦だったのをよく覚えています。どこかに写真があったと思いますが・・・」

スクリーンショット 2015-11-24 17.18.38

(こちらがベンソン氏。アイゼンハワー大統領政権時の農務長官。余剰農産物処理法の発表時の写真)

松谷女史は古い資料を探し始めた。各地で歓迎を受けるキッチンカーの写真やそれを報じる新聞のスクラップの山の中に、ベンソン長官がキッチンカーに乗ってうどんを食べている写真があった。ハシの持ち方はぎこちないが、表情は底抜けに明るい。それにもう一枚、興味を引く写真があった。1956年5月18日、契約調印とただしがきされてある。
そこでは、あのリチャード・バウム氏が、日本食生活協会の林理事長とにこやかに握手をかわしていた。そして、その両脇では厚生省の木村事務次官と、アメリカ大使館のタモーレン主席農務官とが寄り添うように握手する二人を見守っている。日米両国の官民代表が手を取り合ってキッチンカーの事業契約を取り交わした決定的瞬間であった。当時の新聞のスクラップを見ると、いかにキッチンカーがもてはやされていたかがよく分かる。
見出しを並べると「動く台所が活躍」「走る料理教室がやってきた」「重宝がられる栄養指導車」とベタほめである。その中から典型的な報道を紹介して行こう。

秋も深まったピンクにぬった車が走る。これは日本食生活協会から県の衛生部が借りた栄養指導車「めじろ号」というキッチンカー。見た目はバスだが、内部にはガスレンジ、冷蔵庫、食器棚などを備え、後方ドアが三方に開き、公民館の中庭や村のちょっとした広場で自在に料理指導が出来る。

全国で12台。九州では「めじろ号」のほかに1台が「1日1食は粉食にしましょう」「毎日の食事に必ず六つの栄養素を組み合わせましょう」と食欲の秋の農村で栄養指導を行っている。

この日は、栄養指導車を迎えてたくさんの村の人々が集まった。保健所の栄養士さんが手近な材料で、いろいろ美味しい料理の作り方えお説明する。こんなに手軽に栄養料理が出来るのかと、農家の人は目をパチクリ。子供たちも大勢あつまり、おいしそうな料理を前にツバをゴクリ。

聞くだけでは分からぬと、できた料理はみんなで試食。「ウマカ-」と驚嘆しきり。「今夜はこれをつくります」と喜んでいた。この車は今月いっぱい熊本県内を回り、来月は鹿児島県を走る。(朝日新聞・地方版、昭和35年10月16日)

どれもが、これと似たような記事である。そして、不思議なことに、どの記事にも「アメリカ」の四文字が出てこない。日本食生活協会が運営主体であったことは間違いではないが、影のスポンサーの存在を知らせない報道は真実ではなかろう。

「当時の新聞になぜ、アメリカが出てこないのでしょう」

この問いに松谷女史はこう答えた。
「ことさら隠そうとしたわけではないのです。かれども、何と言いますか、アメリカの資金についてふれるのは、協会の中ではタブーのような空気がありましてね」

スクリーンショット 2015-11-24 19.36.13

キッチンカーには、一億円を超えるアメリカの資金が投ぜられ、その事実をほとんどの国民が知らされなかった。

これほどの大金を、アメリカ農務省はどんな意図でだしたのだろう。またこの資金を生み出したPL480とは何だったのだろう。私たちの次の取材地は、アメリカの首都ワシントンと決まった。

 

(1章ここまで)

2章「ワシントンの意図」へ