【学校給食の裏面史「アメリカ小麦戦略」 / 鈴木 猛夫】No.1〜5

ソースは「学校給食と子どもの健康を考える会」のおむすび通信連載より

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.1」(前編)      鈴木猛夫
  昭和20年8月、日本は終戦とともに未曾有の食糧難時代をむかえ世情不安となった。同年10月には地方の疎開先から学童達が都会に戻ったものの食料はなく、米軍の緊急食糧放出、海外からのララ物資、ガリオア、エロア等の援助物資で急場をしのいだ。これはアメリカ初め諸外国の好意の援助でありませに干天の慈雨であった。
政府にとって欠食児童救済は急務であり翌年から学校給食が始まった。主食はアメリカからの無償援助小麦によるパンであった。当時食糧難に加え米の生産量が上がらず、アメリカの援助小麦に頼らざるを得ない事情があったので必然的にパン給食となったのである。アメリカ頼みの給食であったが、昭和27年4月講和条約が発効すると日本は占領時代が終わり形の上では独立国となりアメリカからの無償援助は終わった。同時に学校給食もピンチとなり、財政難から給食費は有料となり給食辞退者が続出し大きな社会問題となった。この頃から食糧事情は次第に好転し、学校給食に米飯を取り入れることも可能な時期ではあったが、昭和29年学校給食法が成立しパンとミルクという形が継続された。
パンが主食となると副食はミルク、卵、バター、チーズ、肉類、油料理などの洋食スタイルとなり、味噌汁、漬物、野菜の煮物や豆腐、納豆、梅干し等の伝統食は遠ざかる。当時厚生省は日本の伝統的な食生活ではなく、欧米流の栄養学に基づく「進んだ」食生活を普及させるという「栄養改善運動」を熱心に推進していた。その線に沿った献立が学校給食で出された。
そしてその運動を裏で強力に支え資金援助したのがアメリカであった。当時アメリカは膨大な量の農産物の過剰在庫をかかえ苦しんでいた。一刻も早く農産物を輸出しないと財政悪化はさらに進み農民の不満も増大していた。アメリカは日本等を標的に本格的に余剰農産物の輸出作戦を開始したのである。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.1」(後編)      鈴木猛夫
  アメリカは昭和29年、余剰農産物処理法(PL480)を成立させ官民挙げて早急な余剰農産物のはけ口を求めた。その最大のターゲットにされたのが日本であった。このPL480法案はアメリカ農産物を有利な条件で発展途上国に輸出するという内容であったが、同時に学校給食に対しては無償で食糧援助をすることが出来るという条項もあった。
この法案に基づいて昭和31年、財政難に苦しむ日本政府はアメリカ側提案による学校給食に関する次のような取り決めをした。(1)アメリカは給食用小麦粉を4ヵ年に四分の一ずつ漸減して日本に贈与する。(初年次10万トン、4年次2万5千トン)(2)日本政府は4年間にわたり、年間18万5千トンレベルの小麦給食(パン給食)を維持すること。という内容であった。
つまりアメリカは初めは学校給食用の小麦を無償で与えるが、それは毎年四分の一ずつ減らし、減った分は日本側が有償でアメリカから購入しパン給食を続けなさい、というものであった。日本側はこれ以後大型製パン工場の相次ぐ建設でパンの大量供給態勢が出来ていった。アメリカはパン給食が4年で終わるものでないことを充分承知の上であった。
パン用小麦は日本では産出されずパン給食を続けるということはその原料を全量アメリカからの輸入に頼ることになる。そこがアメリカの狙いであり、このパン給食の裏にはアメリカの高度な政治戦略があった。アメリカは膨大な余剰農産物処理の為、日本の学校給食でパンとミルクという給食を長期的に定着させようと画策したのである。そこを理解するとパン給食固定化の真相が見えてくる。それについては次号で詳しく取り上げたい。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.2」(前編)      鈴木猛夫
  アメリカの農業は歴史的に見ると戦争と戦後の復興援助を契機として発展してきた。イギリスからの独立戦争、南北戦争、第一次大戦などで大量の農産物が消費されアメリカ農業興隆の一因となった。第二次大戦中アメリカでは農業従事者の約500万人が兵役につき、人手不足を解消するため農業の機械化、大型化、省力化、肥料増などが一段と進んだ。戦後は農業機械代金支払いのため常に一定量の生産を維持しなくてはならず過剰生産が慢性化していた。国内消費だけでは消費しきれず常に輸出が必要であった。


戦後、疲弊したヨーロッパの復興計画いわゆるマーシャルプランにアメリカは総額120億ドルの巨費を投じ大量のアメリカ農産物がヨーロッパで消費され1952年に大成功のうちにこの計画は終了した。51年から始まっていた朝鮮戦争も53年には終結し、同時に農産物のハケ口が無くなり過剰在庫は深刻化した。1950年代小麦、綿花、乳製品などの農産物の在庫総額は2兆円に上り、倉庫代だけで一日2億円以上、倉庫不足から大戦で活躍した多くの輸送船が倉庫代わりに使われたり、更には路上に野積みするなどで余剰農産物対策は急務であった。
当時国際的に小麦価格は低迷しカナダ、オーストラリアなどが価格ダンピングで輸出攻勢をかけアメリカの小麦輸出は困難な状況にあり何としてでも他国より有利な件を提示し余剰農産物の滞貨を処理しなければならなかった。

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.2」(後編)      鈴木猛夫
  アメリカでは、農民票が大統領選挙を左右するとも言われるほどで、早急な対策が大統領に求められていた。当時の大統領はカンサス州の農民出身であるアイゼンハワーであった。朝鮮戦争終結翌年の54年彼は余剰農産物処理法(正式名称農業貿易促進援助法)を成立させた。これは敗戦で疲弊した国にアメリカの余剰農産物をその国の通貨で売却し、代金はその国の経済復興に当てる、というものである。つまりドルが無くても円でアメリカ農産物が購入でき、しかもすぐ払う必要が無く後払いでもいいという有利な条件であった。いかにアメリカは余剰農産物処理に苦労していたかが分かる。
ところがこの法案の本当の狙いはそれだけではなかった。売却代金の一部をその国の市場開拓費にアメリカが自由に使うという条件付きだったのである。ここにアメリカの真の目的があった。
この法案でアメリカは日本への農産物大量輸出が容易となり、学校におけるパン・ミルク給食が定着し、食の洋風化の第一歩が始まったのである。学校給食はアメリカ側の農産物事情によるところが大きかったという点をしっかりと見る必要がある。
巨額な市場開拓費によってキッチンカー、パン職人育成、パン食普及宣伝などの諸活動が活発に行われることになり大量のアメリカ農産物が日本に輸出され急激な食の洋風化は一気に進むことになったのである。それについては次号で詳しく取り上げたい。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.3」(前編)      鈴木猛夫
  昭和21年から始まった学校給食は八大都市では定着してきたものの、その他の地方都市では定着が遅れていた。食糧不足、資金不足の日本としては何としてもガリオア資金やアメリカからの無償援助小麦が頼りであった。
これに対しアメリカ側は「日本政府がパン給食を今後とも強力に推進するならば無償援助を続けよう」という条件を持ち出し、これに対し日本側は25年10月「学校給食は重要な役割を果たしている。日本政府は将来この育成に努力を払う」とアメリカ側に回答した。閣議で決まった了解事項であるだけに重みがあり、以後日本側はこの約束に縛られることになった。アメリカは意図的に日本側にパンとミルクという学校給食のレールを敷いたのである。26年2月から地方の都市部でもパンとミルクという完全給食が拡大された。
ところが同年6月日本はサンフランシスコ講和条約を結び形の上では占領時代に終止符を打ち独立国となった為、同時にガリオア、エロア等の非占領地援助物資のみならずアメリカからの無償小麦提供は終結した。アメリカとの間にパンとミルクという学校給食の継続を約束している日本政府は大いに慌て、それらの食糧を早急に手当てする必要が生じた。
日本政府は全額国庫負担で小麦、ミルクをアメリカから購入して学校給食継続をはかった。しかし財政窮乏の折大蔵大臣池田勇人は国庫補助打ち切りを主張し紛糾した。結局文部省の抵抗にあい翌27年小麦粉のみ半額国庫負担になった。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.3」(後編)      鈴木猛夫
  そのため給食は有料となり父兄の負担増加で給食辞退者が全国で210万人となり「学校給食の危機」が叫ばれた。翌28年には台風13号の被害に加え稲の大凶作が続き自給食糧が危うい時期であった。欠食児童救済は大きな社会問題に発展した。翌29年5月には学校給食法が成立し、パン・ミルク給食路線が確定した。
この昭和25年から29年の学校給食法成立までの過程でアメリカは官民両面から日本側にパン・ミルク給食推進の水面下での工作を続けた。さらにアメリカは余剰生産物を大量に日本国内で消費してもらうにはパンとミルクの給食を農村部にも広げるべきだと判断した。
昭和32年アメリカは文部省所管の財団法人・全国学校給食連合会との間に学校給食の農村普及事業の契約をした。連合会にはアメリカ側から活動費として5735万円が支払われ、農村部の小学校にパン・ミルク給食普及の活動が開始された。学校の教師、父兄等を集めてパン食の効用についての講習会が頻繁に開かれ昭和37年までに参加者は23万人にのぼり、農村部でのパン・ミルク給食普及の土台は作られていったのである。
この時期アメリカのベンソン農務長官も学校給食の視察に訪れている。アメリカはいかに余剰生産物の売り込みに懸命になっているかをアメリカ国民、特に農民たちにアピールする必要があったのである。それが選挙での票につながるのである。パン・ミルク給食定着までの過程を見てくるといかに日米の利害が一致した結果であるかがよく分かる。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.4」(前編)      鈴木猛夫
  今までの3回の連載で何故学校給食がパンとミルクという形でスタートしたのか、その理由について述べてきた。アメリカ側には農産物の慢性的な過剰生産、過剰在庫の問題があり、そのはけ口として日本の学校給食が標的にされ日本に懸命に小麦売り込み攻勢をかけた経緯があった。そして日本側には戦後の厚生省の方針として「粉食奨励」策があり、主食を米からパンへの転換を国主導で推し進めたかった理由があった。
この日本側の事情を詳しくみてみたい。厚生省が何故米から粉食(パン食)への転換にこだわったのかは、戦前の脚気論争、主食論争の経緯を知るとよく分かってくる。日本人は長い間米を作り食べ続けてきたが、米が南方から渡来した頃の食べ方は玄米か糠の部分を少し杵(きね)でついた分づき米(ぶづきまい)であった。
長い間、澱粉質である胚乳と糠と胚芽が揃ったまま食べていたが奈良、平安の時代になると玄米をより白くついて白米にして食べる習慣が一部上流階級で流行した。その結果脚気が流行し、原因が分からぬまま長く悩まされてきた。
江戸時代になると江戸、大阪等の都市部の庶民階級にまで白米常食が広まり脚気の流行は深刻な事態となってきた。脚気は穀類の胚芽等に多く含まれるビタミンB1不足による神経障害で足の神経麻痺、眠気、だるさ、無気力感、脱力感に始まり、更には心臓を動かす神経の異常が起こり心不全を起こして死にいたる恐ろしい病気である。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.4」(後編)      鈴木猛夫
  明治時代中頃になると電気による精米機の登場で米は更に白く精白され糠と胚芽がまったく無い状態で食べることが一般化したため脚気は全国的な広がりを見せ、脚気と結核が二大国民病と言われたほど患者が多かった。年間の脚気病死者が1~2万人となり、明治政府も対策に苦慮した。
明治の末になるまで原因が分からず従って一度かかると適切な治療法が無く死を覚悟するほどの難病であった。明治期の栄養学者、農学者等によって脚気の原因追求の研究、論争が繰り返されまさに百家争鳴であったがやっと鈴木梅太郎等の努力で胚芽に含まれるビタミンB1不足によって発病するのだと分かり脚気論争にケリがついた。
となると今度はでは米をどういう状態で食べたら脚気は防げるのかという主食論争が巻き起こった。七分づき米がいい、胚芽米だ、いや玄米で食べるべきだという三つ巴の大論争の末、昭和14年七分づき米が法定米になった。
ところが戦後は法定米が白米となり、脚気の流行が心配されてきた。戦前の主食論争で白米が良いと主張した栄養学者はいなかったにも関わらず、戦後の法定米が白米になった理由は次回に述べるが、戦前白米常食で脚気に悩まされた経験から、日本人には米よりもパン食のほうが合っているのではと栄養学者や厚生省は考え、粉食奨励が国策として強く推進された。学校給食でパン食が勧められたのもこういう理由もあった。
しかしこれはとんでもない問題を招くことになった。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.5」(前編)      鈴木猛夫
  戦前、国民病とも言われた脚気の治療、研究を巡って主食論争という大きな論争があった。ビタミンB1を多く含む胚芽を取り去った白米では健康を保てないから、胚芽のついた胚芽米がいい、いや胚芽とある程度の糠の残った七分づき米がいいという、いわゆる胚芽米論争である。両陣営は感情的なまでの論争を繰り広げ、昭和14年法定米は七分づき米に決着した。日本の栄養学史に残る大論争であったがそのしこりは深く残った。
ところが戦後は法定米が七分づき米から一転して白米になった。戦前まで主食の米のあり方をめぐって栄養学界を二分するほどの大論争があったというのに、何故こうもあっさり法定米は白米になったのか。
戦後の食糧難時代に厚生省は栄養課を新設し初代課長に戦前からの胚芽米論者である有本邦太郎、課長補佐に七分づき米論者の大磯敏男を迎えた。つまり両陣営から一人づつ選んだのである。 こうなると法定米をどちらに決めても戦前の論争がぶり返され収拾がつかなくなることは容易に想像できる。このことも一因だったと思われるが、戦後の法定米はそれ以外の白米にせざるを得なかった。
しかし戦前の主食論争は白米に問題ありという点では両陣営とも一致していたわけで、戦後になって白米を学校給食に供するには栄養学者の間に戸惑いがあったのではないだろうか。戦前までの米食偏重ではなくパンも取り入れるべきと考えたのではないだろうか。
勿論前号までの説明のように学校給食の主食がパンになったのはアメリカの高度な小麦戦略が大きな原因だが、日本側の問題点としてはそういうことも考えられる。つまり戦前の主食論争の余波があったとも言える。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.5」(後編)      鈴木猛夫
  米は「健康によくない」「ガンになる」「太る」などという誤った論調がマスコミをにぎわし、米に問題ありとの宣伝がパンメーカーなどから意図的に流されたりもした。国の内外から学校給食の主食はパンという力が働いたのである。主食がパンになると副食はミルク、バター、チーズ、肉類、油脂類等の欧米型食生活になりやすく、日本人の体質に合わず生活習慣病(成人病)の原因となる。
戦後日本の栄養教育に大きな貢献をした香川栄養学園創立者の香川綾先生は、終戦直後の食糧難時代に学童達がミルク給食の結果、体位が著しく向上したのを目の当たりにしてミルクの効果を実感したという。それ以後熱心に牛乳普及に情熱を注いでこられた。しかし飢餓状態の時は何を食べても吸収が良く体位は向上するのが普通で、牛乳が総合的に考えて本当に体に良い飲み物かどうかは問題がある。
牛乳の中にはエネルギーの基になる乳糖が含まれているが、これをうまく消化、吸収して体内に取り入れることができるかどうかが牛乳の良否を判断する時の大事な要素になるが、日本人は欧米人と違い乳糖分解酵素が少なく、うまく消化、吸収できないのだ。
牛乳を飲むと下痢しやすいとか、アトピーなどのアレルギーを起しやすいというのは、明らかに牛乳に対する体の拒否反応である。牛乳を長く飲み続けてきたという歴史は日本にはなく、従って乳糖分解酵素は必要なかった。欧米流の栄養学を鵜呑みにしたパンとミルクという学校給食は生活習慣病予備軍を一生懸命作っている。

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