ある大火傷を負った母親と少女の話。それは十字架の愛。

僕がはじめてイエス・キリストを知ったのは小学生の頃です。よく下校するときに校門の外にキリスト教のパンフレットを配ってる人がいました。ワケもわからずに十字架の上で血を流しているイエス・キリストの姿を見せられて「罪が…」などと言われ怖いと思わない子供がいるでしょうか。それがきっかけでイエス・キリストに対しずっと歪んだネガティブな印象を抱いていました。

幼い頃というのは親に対して色々と不平不満を言ったり、自分の親を他人の親と比べて恥ずかしいと思ったりするものではないでしょうか。しかし、親の知られざる愛情を知ったとき、文句を言い続けてきた自分を恥じると共に、親を誇りに思うものだと思います。

イエス・キリストについても同じことが言えるのです。私たちはイエス・キリストについて多くの誤った印象を持っていたり、メディアによって持たされたりしています。今回は僕の大好きなお話をご紹介したいと思います。

顔に火傷をもった母親と子供の話

※こちらの話は「仏教の仏とキリスト教の神 著:久保有政」から引用しています。

東京の日暮里に、ひとりのきれいな少女がいました。しかし彼女の母親は、顔にひどい火傷を追っていて、顔全体が赤く腫れ上がっていました。そのため友だちから、「おまえのかあさんは、お化けだ」と言っていじめられ、毎日泣いて過ごしていました。少女は醜い母を嫌い、なにかと母に当たっていました。しかし母は、そんな子にもじっと耐えていました。

ある日、少女は家の中で遊んでいるとき、たんすの中から一枚の古ぼけた写真を見つけました。写真には、仲の良さそうな男女の二人の姿が写っていました。

男性のほうは若き日の父であると、すぐにわかりました。しかし女性のほうは、知らない人です。写真を母のところに持っていって聞くと、母な涙ぐみ、しばらく黙っていました。

「これはお母さんよ」母は言いました。
「えっ、でも火傷がないじゃないの」

驚く子に、母は説明し始めました。少女がまだ、一歳半の赤ん坊のときのことでした。赤ん坊が、あやまってストーブにぶつかり、その上の熱湯入りのやかんが倒れかけました。それを見た母親は、とっさに子を抱き上げて救いました。しかし熱湯は母親の顔に掛かり、母親は大火傷を負ったのです。

少女はこれを聞いたとき、大きなショックを受けましたが、それ以来、母を誇りに思うようになりました。友だちに何を言われても、もう気にすることはありませんでした。自分がどんなに大きな愛によって守られたかを、知ったからです。

僕はこの話が大好きで、読むたびに涙が浮かびます。
イエス・キリストはなぜ十字架にかかったのか?それはこの話に似ています。それは私たちが幼く、向こう見ずな行動によってストーブにぶつかってしまい、大火傷を負うはずが、イエス・キリストが代わりに熱湯を浴びて私たちを救ってくれたのです。もしかすると十字架上で血だらけになったイエス・キリストの姿は火傷を負った母親のように醜く写るかもしれません。しかし、その愛を知ったならばその十字架上の姿は醜いどころか私たちを照らす喜びの光となるのです。

僕もこの少女のように「イエス・キリストって怖い、変な人」という歪んだ印象を持ち、その愛を知らずに自分の好きなように生きてきました。しかし、今はその親のような愛を知りました。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 1ヨハ4:18-19

天の父の知られざる愛を知ったとき、周りに何と言われようと気にもならなくなります。僕はイエス・キリストを恥とせず、その愛に心から感謝し、強く誇りに思います。

この十字架の愛は全ての人に注がれています。それを無視するか気づくか2つに1つなのです。

■中山■

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ABOUTこの記事をかいた人

菜食の元パーソナルトレーナー。
2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。