意外と知られていない&勘違いされている?キリスト教・聖書の話6つ。

色んな方々と話すとキリスト教や聖書について意外と勘違いされていたり、「えっ!?そうだったの!?」と驚かれることがあります。ということで今回はそんなトピックをいくつか上げてみたいと思います。

知識がある方にとっては「そんなのとうの昔から知ってるわ」という話が多いと思いますが、これを機にキリスト教や聖書に対する偏見やアレルギー反応が少しでも軽減すればと思います。

キリスト教の発祥はアメリカではない

これ意外と多いのです。
「キリスト教ってアメリカだっけ?」と言われることもあります。キリスト教の聖典である聖書の舞台となっているのはイスラエルのエルサレムを中心とした中東の地域なのです。

パレスチナ問題など問題の多い中東ですが、実は地理的にもこのイスラエル近辺は世界の中心地でもあるのです。

かつて「地球上の全陸地の中心はどこか」という問題について、ある科学者たちが、コンピューターを用いて研究したことがあります。…その算出の方法は、全陸地を幾つもの細かな地域に分割し、「ある場所から、他のすべての分割地までの距離の総和が、最小となるような地点」を探すことです。そのような地点が、数学的に求められた、全陸地の中心とみなされます。…その地域は、じつにパレスチナからメソポタミヤにかけての地域でした。
すなわちエデンの園、バベルの塔、ベツレヘム、ナザレ、またエルサレムのある地域、つまり聖書の出来事の舞台になった地域が「全地の中心」であり、「万国の中心」なのです。この地域はまた、次の意味でも、万国の中心です。
そこはヨーロッパ、アジア、アフリカの3大大陸の「接点」にあたる地域です。3つの大陸が互いに接する地域が、パレスチナ・メソポタミヤ地域なのです。またその地域は、黄色、白色、黒色人種(または最近の分類に従ってモンゴロイド、コーカソイド、ニグロイド)のそれぞれが住む地域の、ちょうど「交点」にあたる地域です。
パレスチナ・メソポタミヤ地域を中心として、北方から西方にかけて白色人種が、東方に黄色人種が、南方に黒色人種が住んでいるのです。ところが、驚くべきことに世界で最も古い書物――『聖書』は、パレスチナが万国の中心に位置することを、今から何千年も前にすでに記していました。

B.C.600年頃に記された聖書・エゼキエル書5:5には、こう記されています。
「神である主は、こう仰せられる。『これはエルサレムだ。わたしはこれを、諸国の民の真中に置き、その回りを、国々で取り囲ませた』」。また同書38:12ではイスラエル民族のことを、「地の中央に住むと呼んでいます。

このように、地理学においてほとんど無知であった時代に、パレスチナ地方が「地の中心」であり「万国の中心」であると聖書が述べていることは、聖書が、「神の霊感を受けて書かれた」(Ⅱテモ3:16) 特別な書物であることを、はっきりと示しています。

レムナント 聖書読み物サイトの記事「万国の中心」より

このイスラエルからイエス・キリストの福音が世界に広がっていったのです。

聖書(旧約)はユダヤ教・イスラム教の聖典でもある

世界三大宗教と言われているものに「キリスト教・イスラム教・仏教」があります。そのうちの上位2位を占めるキリスト教とイスラム教で聖書は読まれているのです。

そもそも聖書という書物は66つ書物を1つにまとめた「1冊の図書館」のようになっています。そしてこの図書館は「古い契約(旧約聖書)」と「新しい契約(新約聖書)」という2つカテゴリーで分かれています。簡単に言うと新約聖書からイエス・キリストが登場し、旧約聖書は罪から人々を救う救世主(キリストやメシアと呼ぶ)が将来現れることを予言した書物や天地創造などの根源的な話が書かれています。この同じ根っこからキリスト、ユダヤ、イスラム教が生まれているので旧約聖書が聖典として使われているのです。

つまり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神様を信じています。ユダヤ教の神様が与えてくれた救世主(キリスト)を「イエスは予言されたあのキリストだ」と信じるのがキリスト教です。対して、それを認めず救世主の到来を今も待ち望んでいるのがユダヤ教の方たちです。イスラム教も一神教ではありますが預言者ムハンマドの「コーラン」が最も重要な聖典としており旧約聖書の重要度は低いようで、ユダヤ・キリスト教とは違った方向へ進んでいる感は否めません。

ちなみにイスラム教のムハンマドは病で死に、彼は今も墓の中にいます。しかし、イエス・キリストの墓は空です。この点は実は非常に重要なのです。

聖書はルールがびっしり詰まった堅苦しい書物ではない

これはダメ、あれはダメ、あれもダメ、ダメダメダメ!で禁欲的なルールブックかと勘違いしている方もいるかもしれませんが、全くそんなことはありません。実は私も堅苦しいというイメージがあったのですが、読んでみて驚きました。最初はまるで小説を読んでるような気がしました。

聖書は世界で最も古い書物ですから表現方法や時代背景も今と全くことなりますので特に旧約聖書は難解とされます。確かに新約に比べて読解にエネルギーを要します。しかし、内容からしたら新約よりも多彩と言えるかもしれません。キリスト教を全く知らない方でもこの言葉を耳にしたことはあると思います。

  • アダムとエバ
  • ノアの箱船と大洪水
  • バベルの塔
  • 目には目を、歯には歯を…
  • モーセの十戒

など、これらは全て旧約聖書に書かれているです。壮大なストーリーを読んでいる気になります。この点で聖書はファンタジーだと指摘する人もいますが、時代が経てば経つほど科学や考古学が聖書の記述の正しさを証明しているのです。

他にも旧約聖書には

  • 詩編(詩を集めたもの)
  • 歴史書
  • 歌集
  • 格言集
  • 予言書

などがあり、内容は非常に多彩です。もちろん律法と呼ばれるルールを書き記した書物もあります。本当に危険なことと知りながら警告をしない親などいるでしょうか?ダメなものはダメとはっきり言っているのも聖書の特徴です。しかし、それは親の愛と同じなので、危険から守り、より豊かに育ってもらうためです。

いきなり聖書を読むというのはハードルが高いという人は天地創造を記した「創世記」、格言を集めた「箴言(しんげん)」、莫大な富を得ても神無くして世は空しいという悟りに至った「コヘレトの言葉(伝道の書)」などが入りやすいかもしれません。きっと聖書に対するイメージが変わると思います。

新約聖書は我らの救世主イエス・キリストの福音(Good News)が書かれています。何を語り、何を行って、どんな方だったのかなどいわゆる「5W1H」の視点でイエス・キリストを知る事ができます。旧約に比べて読みやすいので、まずは新約から入るのも良いと思います。イエス・キリストの語った言葉はきっと誰の心にも突き刺さるものがあると思います。

話は反れますが、以下のイエス・キリストが語った御言葉を読むと「非暴力」を掲げたあの人を思い浮かべないでしょうか?

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 マタイ 5.38-48(口語訳)

そうです、非暴力を掲げたガンディーです。ガンディー自身が語っているのですが、この非暴力のアイデアはイエス・キリストの御言葉から得たものなのです(ガンディー自身が善人だったかどうかは疑う余地がありますが)。気づかぬうちに私たちは神様の教えを聞いているのです。

「キリスト教=教会に行く人」ではない

クリスチャンにとって教会に行くことはとても大切なことです(最近は行かない人も増えています)。1〜2時間イスに座ってのほほんとしているわけではありません。私はクリスチャンはむしろ「ファイター」であると表現したいと思います。

聖書では神様を信じる信徒を「羊」と表現しています。羊は従順です。ときにこの羊という言葉を批判的に「盲目で意思の弱い人」として表現する人もいます。しかし、イエス・キリストを信じた人全員がそのような盲目なひ弱な羊として見るのは正しくないと思います。なぜなら、イエス・キリストを信じる人は弱くなるどころか強くなるからです。むしろ従順な戦う羊なのです。それは神様の愛を知ったからです。愛を知ると悪に立ち向かおうとします。

ある例えがあります。

ある国に愛に溢れた王様がいました。しかし、罪に対しては徹底した態度で厳しい裁きを与える聖なる方でもありました。目を傷つけた者には同じように目を傷つけ、歯を折った者には同じように歯を折る裁き与えていました。

ある日、1人の手下が王様の元に来てこう言いました。「さきほど街で男の腕を切り落とした若者を捕らえました。」そこで王様はその若者を自分の前に連れてくるように言いました。しかし、手下が連れてきた若者を見て驚きました。

なんと自分の愛する息子だったのです。王様は大きな大きなショックを受けました。なんとかして自分の息子を助けたい、そう考えました。しかし、自分の息子という理由で掟を変えるわけにはいきません。手下は王様に「この者の腕を切り落とす準備は整っております」と言いました。そこで王様はこう決断しました。

「わかった。その者は罪を犯した。裁きを受けるのは当然だ。腕を切り落とせ。しかし、その者の腕ではなく、代わりに私の腕をだ。」こうして王様は息子の代わりに罰を受けました。息子を愛していたゆえに、息子の罪の賠償金を自分の体で払ったのです。

この息子は何を思うでしょうか?父が罪を代わりに受けてくれたお陰で無罪となったのです。息子はこの先、ずっと父を恐れながら生きるでしょうか?いいえ、きっと息子は父の愛を知ったことで、父を誇り、もう罪を犯さぬよう生き方を変えるでしょう。父の愛が息子を救い、正義に変え、強くするでしょう。

聖書にはこう書かれています。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 1ヨハネ 4.18-19

だからクリスチャンはこの息子のように父の愛を知り、それを実践しようと悪と戦う羊なのです。盲目になる可能性がないわけではありませんが、それでも父から教わった愛を実践しようと走る羊でもあるのです。教会に集まってただ座ってる人ではないのです。

キリスト教には輪廻転生はない

聖書では死後についてはっきりと教えています。死後にその前世の行いによって次の生は虫になったり、動物になったりしません。人生はワンチャンスです。オンリーワンです。人間は誰でも神様の裁きを受けると書かれています。天国行きか地獄行きか2択しかありません。

最後の裁き
わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。…その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 ヨハネ黙示録 20.12-15

死者たちの魂が輪廻するなどと聖書のどこを探しても見つかりません。この裁きから救われるための唯一の方法は先ほどの王様の右腕の例え話のように、誰かが自分の代わりに賠償金を払うしかないのです。誰かが自分の代わりに命という賠償金を払う意外方法は無いのです。そんな人が一体どこにいるでしょうか?自分には全く関係の無い罪を喜んで受けてくれる人がいるでしょうか?道行く人に「私の代わりに死んでくれませんか?」と言って「わかりました」という人がいたらはっきり言ってそれは狂人でしょう。

しかし、たった1人だけ狂人的な愛の持ち主がいるのです。その方は約2000年前に十字架の上で死をもって私たちの賠償金を全て払って下さいました。それがイエス・キリストです。その救い人(キリスト)を信じることで命のギフトを受け取れるのです。しかも、タダです。よく「タダより怖いものはない」といいますが、詐欺が蔓延する現代において、タダで自分の負債を全て払ってくれるなんて話を信じるのは非常に難しいかもしれません。何か裏があるんじゃないかと詮索すると思います。逆にいくらか料金を請求されたほうがずっと楽かもしれません。しかし、この救いはお金や行いによって受け取れるものではないのです。ヒンドゥー教ではカルマの法則といって現世の行いによって次の生が決まると言いますが、キリストの救いは「信じる信仰」によって救われるのです。この「信じること」のほうがずっとハードルが高いのです。お賽銭を入れてお願いをするほうが「利いてる感」や「やってる感」があるのです。そのほうが楽なのです。イエス・キリストを救い主として信じることで「最後の裁き」から救われるのです。十字架は本来イエス・キリストから命を奪った憎むべき象徴ですが、十字架を見るたびにイエス・キリストの愛と救いを思い出し、この一度限りの人生を全うしようと思うのです。輪廻転生が言うような前世や来世などは聖書では一切教えていないのです。

この輪廻転生という考えはヒンドゥー教において顕著ですが、それに影響を受けた仏陀もこの考えを採用しています。よくこんなことを言う方がいます。「仏陀もイエスも同じ霊的な教師であり、全ての宗教は道は違えど同じ山の頂上に向かって進んでいる、だから宗教は全て1つである。」と。死後に対する答えは非常に重要ですが、それが両者で全く異なるのにどうして同じ山頂に向かっていると言えるでしょうか。そもそも同じ山に登っていないのです。

また、海外ではクリスチャンヨーガなるものがあるようですが、ヨガはヒンドゥー教の修行法です。キリスト教の何の関わりもありません。水と油ように決して交わるものではありません。しかし、こうして世が終わりに向かえば向かうほど、真理に混ぜ物を入れ、真理を曲げようとする動きがより活発になります。

偽教師についての警告
愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。 ユダの手紙 1.3-4

キリスト教とヒンドゥー教は交わりません。イエス・キリストもヨガをしたとか、イエス・キリストをヒンドゥーと混ぜようとするのはイエス・キリストの否定に他なりません。キリスト教にヒンドゥーの教え「輪廻転生」が入る余地がないことは明らかです。

聖書では占い、霊媒、魔術は禁止している

かつて日本では「こっくりさん」や「宜保愛子」などが有名でした。最近では占星術やカード占い(タロットカード、エンジェルカード)が盛んになってきている印象を受けます。本屋に行けば宗教色を隠してこういったオカルトが堂々と並んでいることに驚きます。

聖書では本当に口酸っぱくオカルトに手を染めぬように警告しています。

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 申命記 18.10-11

驚くべきことですが、異教習慣には自分の子供を生贄にしていたのです。これが悪魔の仕業であり、現実にあったことなのです。

女呪術師を生かしておいてはならない。すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる。 出エジプト記 22.17-19

男の呪術師はOKという意味ではありません。呪術は全て危険だから禁止しているのです。また皆さんは「美女と野獣」という映画をご存知かと思います。人間と獣の恋、これも聖書では禁止です。世に出回っているものは反聖書、反キリスト的なことばかりであることに少し気づく必要があります。

聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」という予言書の最終章にはこうあります。つまり神様からの最後の最後の念押しです。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を行う者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべての偽りを好み、また行う者は都の外にいる。 ヨハネ黙示録 22.14-15

神様がこうした警告を最後に再度引っ張り出すということはある意味、上記に書かれていることに心奪われる人が増えるということです。つまり魔術、呪術、占い、霊媒、死者との交信、そういったものが増えるのです。しかし、神様はそれらから離れなさいと警告しています。人の好奇心だけを満たすだけのマジックやどう考えてもトリックがあるように見えないものは魔術であり、それは悪魔からの力なのです。

クリスチャンでこのようなオカルトは先に述べたように水と油の関係で、決して関わりを持つものではないのです。今のメディアから流れてくるものには「魔法、霊術、死者との交信」など聖書が禁ずるものが当たり前のように溢れています。ハリーポッターはその1つです。そういったものに長い間触れていると私たちの心は聖書が禁じる道へと進んでいくのです。

まとめ

もしかしたら意外な点もあったかもしれませんし、鼻で笑ってしまうこともあったかもしれません。聖書を読んだからといって必ずクリスチャンになるわけではありませんし、信じるか信じないかは自分の選択です。それこそ本当に自由です。

聖書は神様からのラブレターとも形容されます。ラブレターをもらって読まずに捨てるなんてできるでしょうか?読めば読むほど驚く事ばかりです。ラブレターは死んでからでは読めないのですから。

ラブレターを読めばこの世界が反キリスト・反聖書的なシンボルで満ちあふれているかに気づく事でしょう。それはなぜかと言えば、私たち人間が神様という恋人と関係を持って欲しくないと、相手の悪い噂やウソを言いふらす悪どい不良が暗躍しているからに他なりません。

最後に有名な音楽2曲を紹介します。この曲はキリスト教に関係してるのです。ご存知でしたか?

■中山■

4 件のコメント

  • あなたの言う事は思い込みと虚偽に満ちていませんか?
    なぜ聖書の矛盾に答えもせず「事実だ」と頑なに通そうとするのか。
    誰も納得できないし、信仰者の態度とは思えません。

    http://www.sevenz.com/sevenZ/religion/familyLineOfJesus.html
    ●イエスの家系図はどちらが正解ですか?
    アブラハム→イエス: マタイ 41代、ルカ 57代
    両者ユダヤの偉人・サラテル-ゾロバベル親子を通したため片方はマリアの系図だという言い訳は不能。

    『ヨラムにウジヤが生まれ』(マタイ1:8)
    ↑ヨラムにウジヤは生まれていない。(歴代誌/上 3章)
      ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-ウジヤ
     
    『ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった』(マタ1:11)
    ↑ヨシヤは移住していないし、該当する王はエホヤキム(エコニヤの父)
     
    これら4代削除は「ダビデ→バビロン移住までが14代」(マタ1:17)と
    言わんがための削除と見られます(18代あるから4つ削った)。
    旧約を工作して偽の救世主像を作っては、ユダヤ教徒は納得しない。(「新約聖書は聖書ではない」がユダヤ教の主張)

    ユダヤ教の堅苦しい律法は、「今も有効」な現役の法です。
    「古くなった」(旧約)とはキリスト教側の勝手な言い分です。
    ユダヤ教聖書を使う事さえ認めていない。

    パウロごときの言葉で神の約束が更新されたというのは言い掛かりではないですか?
    納得できる説明をしてからユダヤの神を借りるべきです。
    自分の主張を「神」「主」の言葉だと言って通そうとするのは単なるエゴですよね。ガンジーはこうも言っています。
     
    『西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリスヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである。』

  • それとイエスの教えとパウロの教えはまるで合致していません。
    マタイ 5章19節以降
    『だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者( ← パ ウ ロ )は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる』

    ユダヤ律法を堅持するマタイ伝は、パウロの新約や怠惰な信仰義認を完全否定します。聖書は読む箇所により救済論が違うのです。
    困難な狭き門を選び、良い実を成らせた(実践する)者だけが救われるというのが雄々しい山上の垂訓の核ですね。あるクリスチャンの解説です。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459227734
    ここから「狭い門」は、「本当の預言者」「良い実を結ぶ良い木」「御心を行うこと」「岩の上に家を建てること」のことだと推察できます。

    この部分だけを取り出して読む限り、これは「信仰さえあれば救われる」と主張する偽預言者に騙され、「言葉を聞くだけで行わない者」に対する警告でしょう。マタイによれば、こうしたこうした間違った信仰は、決して良い実(行動)を生み出さないのです。
    ただしこうした解釈は、キリスト教の「信仰による義」という教えと必ずしも一致しません。
    —–
     
    『ラブレター』などという退廃的な言い方は、一切の努力も要せず全てを与え、わがままな子しか育てない不出来な親たるパウロ教を象徴する言葉だと感じます。
    パウロは1~3世紀にはまるで支持が薄かった。『違法なキリスト教徒』として排斥する動きさえ盛んだったのです。信じればすぐゴールなどというイージーモードは人類の毒でしょう。だから人間性が育たない。

    私は自分が間違っていたらすぐ修正しますよ。
    人生のその先まで間違う訳にはいかないので。

    それができないあなたは自己犠牲のイエスとは無関係の、悔い改める恐れに勝てない愛を吸引された保身の輩ではないですか? 独善的な思想を人にまで勧めるのなら、きちんと逃げずにお答え願います。

  • 今はイスラムの断食月ですが飢餓に苦しむ人々の
    苦痛を知る意味でも行うそうです。
    筆者様はイスラムの行や他の宗教は救いに通じないというお考え
    でしょうか?中東のある場所でイスラム教とキリスト教の
    信徒同志の結婚が目立つ地域に行ったことがあります。
    彼らは必ずしもそのような頑固な考えではなかったと思いますが…

    • 火の柱さん、コメント有り難うございます。
      火の柱さんは何か信仰はお持ちの方なのでしょうか? わたしはクリスチャンとしてイエス・キリストのみが唯一の道であり真理であり命であると信じています。
      ムスリムの方にも当然素晴らしい人もいると思います。しかし、それが救いに通じるかは別問題と捉えています。わたしは決してムスリムの人たちを嫌っているわけではありません。
      異教徒間の結婚というのは人生で最も大切な部分で衝突が避けられないでしょうから、わたしはそのようなことが無くなることを祈ります。

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    菜食の元パーソナルトレーナー。
    2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。