この世に本当のVEGANはいない。ネット上で見かける過激な肉食非難の声について思うこととその答え。

正直、私自身はこの世界に本当のVEGANは1人もいないと思っています。

「本当の」というのは「生っ粋の」という意味で使っています。つまり生まれてこの方一度も動物性のモノのお世話になったことの無い人です。おそらくそんな人はこの世に1人もいないはずです。ですから本当のVEGANは1人もおらず、肉食を非難できるのは「この世に1人もいない」と私は思っています。

しかし、ネット上ではVEGANの人による肉食に対する激しい非難を見かけることも少なくありません。VEGANというライフスタイルは健康、動物愛護、エコロジーなどの観点から見ても素晴らしいものですが、そういったコメントを見ると何か矛盾しているような気がしてしまいます。

こういった非難の声を目にしたとき、私の頭にパッと浮かぶのがヨハネの福音書にある「姦淫の女」の話です(姦淫とは倫理にそむいた肉体関係のこと)

姦淫の女を石で打ち殺せ

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(写真こちらより)

イエスはオリーブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとり一人出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこで、イエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。 ヨハネ8:1-11

当時のユダヤ人(律法学者やファリサイ派の人々)は律法を厳格に守ろうとするあまり、それが自分たちを縛りつけ、いつしか身動きが取りにくくなっていました。そして行いばかりに焦点が集まり、最も大切な律法の中身が置き去りになっていました。つまり、ユダヤ人たちは外見だけ整えていたが、中身は汚れていたのです。その偽善をイエスからずっと指摘されていました。

(姦淫した者は石で打ち殺すと聞くと今の私たちからすると驚きですが)ユダヤ人たちは姦通の女を罪に定め、イエスのもとに連れてきましたが、このユダヤ人たちも過去に罪を犯したことのある人間でした。イエスは人間は誰でも罪を犯すものだということを当然知っていました。それが昨日だろうが10年前だろうが罪を犯したことに変わりはなく、神様(イエス)からしたら人間はみな同じ罪人なのです(その罪を取り除くためにイエス・キリストが来られたのですが)。

その点をズバリ指摘されたこの律法学者たちは誰1人としてこの姦淫の女に手を下すことができませんでした。同じ罪人同士で裁き合うことなどできないからです。

肉食への非難もこれと同じだと私は思います。過去に動物の犠牲に全く関与していない人ならば肉食者に対して石を投げることができるでしょうが、それはできないでしょう。情報発信と非難は全く違うものなのです。

人間に従うよりも神様に従う

たまに「肉食は完全に間違っている」というコメントを見る時があります。しかし、神様はどうみているでしょうか?

神様は天地を創造されたとき、人間に与えた食べ物は100%植物性食品でした。

人間はもともと菜食だった?肉食動物もいなかった?聖書から肉食菜食を考える。

2016.09.25

しかし、色々な経緯があり、後に神様は人間に肉食を許可します。また、旧約聖書の中には動物のいけにえについての記述がたくさん見られます。聖書について何も知らない動物愛護者が読んだらきっと聖書を投げ捨ててしまうかもしれません。しかし、人間は誰が創ったのか?天地は誰が創造したのか?その答えが見いだせない限り、動物愛護に対する最終的な答えは見えてこないと思います。

神様は人間に全ての生き物を支配する権威を与えました。つまり、動物をどうするかは私たち次第なのです。食べなくても良し、食べても良し、なのです。しかし、動物も神様の被造物の1つであり、その管理がガサツになることは望んではいないはずです。肉を食べることに感謝するならばそれは神様の御心にかなうことでありますが、それを貪るならばそれは神様は喜ばれません。

重要なことは神様は肉食を禁止していないということです。そして神様に逆らっても最終的にその試みは完全には達成されないということです。神様の被造物である人間が神様の許可に反し、肉食を禁止させようとする試みは私の目からすれば愚かなことにも見えるのです。もちろん動物に対する扱いを整えようとする活動は素晴らしいことですし、単に私欲を肥やすための美食や毛皮も必要ないと思いますから、アニマルライツの活動が意味が無いなどとは全く思っていません。むしろ大切なことだと思っています。

「肉食は正しいかどうか?」を議論する前に「私たちとは一体何者なのか?」の答えを見いだせば、おのずと肉食への解答も出て来るのです。自分では善を行っているつもりでも神様に反逆してしている、これほど悲しいことはないのです。

イエスはこう言いました。

思い悩むな
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。・・・だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまでも思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 マタイ6:25-34

食やファッションは現代では楽しみの1つであり、もちろん大切なものです。しかし、そこに心を使い過ぎてはいけないとイエス・キリストは言っています。それよりもまず神様を求めることが先であり、それが人生の礎となるということです。

食べてストレス発散、衝動買いでストレス発散というのはまさに思い悩んでいる証拠でしょう。そして同じように、食に厳しくなるあまり、これは食べてはダメ、あれはダメ、これもダメ、ダメダメし過ぎも思い悩んでいる状態と言えるでしょう。それによって神経をすり減らし、消耗してしまってはいけません。もしVEGANで思い悩みが多いならいっそVEGANにこだわらずFlexitarianの生き方をしたほうがずっと良いと思います。

VEGANでもベジタリアンでもない「フレキシタリアン FLEXITARIAN」という生き方。

2016.10.24

とにかく、まずは神様を求めること。そこに答えがあるのです。

相手に思いが伝わらないなら

VEGANに限らず、何か情報発信をする際、自分と意見の合わない人や自分の情報発信のせいで人から嫌がらせを受けることがあると思います。なかなか思いが伝わらないときに相手に対し苛立つことがあると思います。そのときにどうすべきか?無理に強いるべきか?やられたらやり返すか?

いっとき「やられたら倍返し」そんな言葉が流行りましたがイエス・キリストは倍返しどころか復讐や憎むことは一切してはならないと教えています。

復讐してはならない
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが一ミリオン行くように強いるなら、二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

敵を愛しなさい
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 マタイ5:38-48

この聖句は有名な「山上の説教」というものの一部です。聖書は知らずとも聞き覚えのある言葉がいくつかあるかと思います。自分を愛してくれる人を…という部分はわたしの心に響いた聖句の1つです。もちろん言うのは簡単、読むのは簡単ですが、行うのはなかなか難しいことです。しかし、行う価値のある教えだと思います。

人はそれぞれ考え方も、性格も違いますから、自分と同じようにはなりません。アドバイスや指摘をしてもそれがすぐに受け入れられなくても、相手を心底思い、相手にとって有益であると思うならばその人がそれを受け入れるよう神様に祈るのです。相手の知らないところで隠れて祈り続けるのです。呪ってはなりません。

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敵を愛するとは夫婦のように愛し合うという意味ではなく、相手にとって本当に大切なことは何かを考え、それを行動に移すことです。自分にとって居心地のいい人は受け入れ、そうではない人はすぐに拒む、そんなことをして何を得るでしょうか(※肉食者が敵という意味ではありません)。

もし自分が何かを伝えたい、何かを広めたい、そう願うならむしろ自分に挨拶しない人、自分を愛していない人のところに進んで飛び込み、自らが先に挨拶し、愛していく、自分がしてもらいたいと思うことを先に行うことが大切なのだと思います。今でこそ世界に伝わっているイエス・キリストの教えですが、それを述べ伝えるために、相手を非難し、攻撃しなさいという言葉は聖書には一切出てこないのです。

まとめ

何かを伝え広めるとき、非難し、攻撃してもそれは神様の御心にかなうことではありません。
一時的には自分の思い通りになるかもしれませんが、愛無き行いや言葉は恐怖や力で相手を押し付けているだけで結局は良い方向には向かわないでしょう。

  • この世に1人として動物の犠牲の恩恵に授かっていない人はいない
  • ならば肉食に対して非難、攻撃し、裁くことはできない
  • 動物に対する扱いは整えるべきだが、肉食は神が許可されたもの
  • 人間に従い、神に逆らうことがあってはならない
  • 情報発信ではなく、感情的に非難し攻撃的にコメントするならそれは良い結果を生まない
  • 自分の愛がすぐに伝わらなくともそれがその人に届くよう祈り続ける

自分も日々学び、自分を鍛えていきたいと思います。
どうか1人でも多くの人がイエス・キリストの真実に気づきますように。

■中山■

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ABOUTこの記事をかいた人

菜食の元パーソナルトレーナー。
2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。