恋愛・結婚・性関係について真面目に書いてみました。

恋愛というのは人々の関心が高いトピックだと思います。私は聖書を知ってから恋愛などに対する価値観が180°変わりました。そしてこれまでいかに自分が愚かなこと、危険なことをしてきたのかを知りました。

昨今、性についてはますます開放的になっており、それが良いことのように広まっていますが、果たしてそれは正しいでしょうか?恋愛において悩みを抱えている人も多いと思います。それは歪んだ恋愛の価値観を植え付けられているからだと考えます。そこで今回は私の個人的な経験も踏まえ、恋愛に対して真面目に書きたいと思います。

私のこれまでの恋愛の価値観

私は20歳を過ぎるまで彼女はいませんでした。今思えばどうでもいい話ですが、当時の自分からしたら「焦り」でしかありませんでした。なぜなら周りの話についていけないですし、情けない男と見られるのが恥ずかしかったからです。しかし、心の奥底では「付き合うって一体何だろう?」という疑問も持っていました。多くの人数を経験したほうが良いという人もいますが、私からしたら「それってつまり初めての恋人ができたら同時に別れのことを考えるべきなの?」と。また「付き合うって全て「結婚」というゴールに向かって始めるものじゃないの?」そんな風に思っていました。しかし、テレビや映画などのメディアによる植え付けられた価値観によっていつしか自分もいわゆる「一般男子の頭」になっていました。

人生の先輩方からは「若いんだから彼女の1人ぐらい作れ」「その歳で彼女がいないのは悲しいぞ」というようなことを言われ、そうすべきかもしれないし、そうしなくてもいいかもしれない、でもそうしたほうが良いんだろうな、と思うようにもなっていました。

また数々の武勇伝を聞き、自分はそんなことはできないだろうし、起きないだろうと思っていましたが、それが男の生きる道ってものなのか…と一種の憧れを抱いたりもしました。

いつしか「ある程度の人数は経験すべき」「性行為は恋愛の中ではあるべきもの」というような「好きなだけ、できるだけ多く付き合いなさい」そんな社会の考えに染まっていました。本当に自分は無知だったと思います。

なぜ聖書は婚前交渉の禁じるのか。禁欲の先にあるもの

婚前交渉とは未婚の男女が性行為を行うことです。それを聖書では禁じています。

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おそらく現代社会の価値観に染まっている方は「えっ?本当?厳しくない?」「別に愛し合ってるなら良くない?」「禁欲的でかた苦しい」などと思うかもしれません。私もその意味を知るまでは同じでした。なぜ禁じるのか?それにはちゃんと理由があるのです。「夜に1人で出歩くな」と言われるのと同じようにその言葉の裏にはちゃんと理由があるのです。

それは「あなたの人生を守り、幸福な人生を送れるようにするため」なのです。

①望まない妊娠の回避

性行為を行えば妊娠する可能性があります。「できちゃった婚」という言葉がいつの間にか当たり前のように認知されるようになっていますが、望まない妊娠は人生を大きく狂わせることになります。子供を持つということはペットを育てるのとはワケが違います。未婚のカップル、特に若い学生同士などが婚前交渉を持つ事は非常にリスキーなのです。場合によっては中絶を選ぶかもしれません、それは女性にとって肉体的にも精神的にも大きな負担となります。だからこそ男性は女性を心底大切に扱うべきだと思うのです。お互いの人生が狂わないためにも婚前交渉は避けるべきなのです。仮に結婚後に予期せずに妊娠したとしても、子育ての準備は整っているためそれは人生を狂わすようなリスクにはなりにくいといえます。

②性病

現代は性が非常に乱れています。一時的な快楽を求め、酒やドラッグの勢いに任せ、肉体関係を持とうとイベントに参加する男女は少なくありません。その結果性病が蔓延しています。快楽と引き換えに病気に感染するリスクをもらうのです。

③子供

子育てするのに十分な経済力、人間力、精神的準備のない親に生まれて来た子供はどう育つでしょうか?仮に母親が出産を望んでいなかったとすると、子供は母親の胎内にいるときからそのネガティブな感情を受けると言われています。つまり「自分は生まれてこないほうが良かった」「自分は母親を苦しめている無価値な存在」そんな性格の傾向をもつ子供が生まれてくるのです。婚前交渉のリスクは生まれて来る子供にも及ぶのです。

④相手に対する愛情が冷める可能性

よく「付き合い始めが一番良い時期で3ヶ月を過ぎるとだんだん…」なんて言われています。どうしてでしょう?その理由の1つは婚前交渉を持つからだと私は思います。付き合い始めはお互いを求め合っています。ドキドキしています。なぜなら相手を知らないからです。しかし、関係を持ってお互いを知り始めてしまうと少しずつそのドキドキ感は薄れていきます。相手を知ってしまったからです。求めていたものがすぐに手に入ってしまうからです。簡単に手に入ったものは簡単に飽きてしまうものです。もし、結婚まで関係を持たずに待てば、出会った頃のドキドキは維持もしくは高まり続け、その結婚の絆はとても強いものになるでしょう。もちろん性行為のために結婚するというのは本末転倒ですが、お互いを大切にしてきた2人に神様は素晴らしいギフトを授けてくれるでしょう。

「結婚し、子供ができると夜の営みが減っていく」これがよく言われていることかもしれませんが、本当は逆だと思います。夜の営みとは夫婦に与えられた2人だけのものであり、結婚してからが楽しいのだと思います。

もし本当に相手のことを愛しているなら待てるはず

婚前交渉を禁じている理由は神様がそのカップルの人生を幸福にするための愛がゆえの掟なのです。しかし中には「お互いが愛し合ってるなら性関係を持ってもそれは自由ではないか」と言う方もいるでしょう。

しかし、私は思います。その愛とは何でしょうか?その愛の基準は何でしょうか?好きなら何でもいいのでしょうか?そこに理性は働いているでしょうか?

もし本当に相手のことを愛し、大切にしたい、一生この人と支え合っていきたい、そう思うならば我慢できると思います。それが相手を守り、かつ自分を守るためであり、2人の関係をより強く結びつけるからです。

彼氏彼女とは性のパートナーではなく、生のパートナーになることを見据えて結婚を前提に付き合うべきだと思います。自分の肉欲を埋めるためのパートナーではないはずです。性的快楽はすぐに渇きます。そして人々を中毒にします。最悪人生を破壊します。だから戦後の愚民政策の3Sのうちの1つにセックスが用いられたのです。

自分を内を満たすものが性的快楽というのは非常に寂しいことです。それは純粋な愛ではないでしょう。なぜなら自分を満たすことを考えているからです。

愛とは何か

聖書にはこう書かれています。実に神様は「愛」であると。それと同時に「聖なる方」でもあります。ですから、優しさを持っていながらも明確な善悪の判断基準を持っており、悪に対しては裁きを行います。

ニューエイジの悪魔的な「愛」とは「何でも受け入れること」です。多様性を受け入れることです。人それぞれの考えを尊重し、全て受け入れる、これが愛だと言うのです。聞こえはいいですが、そこに明確な基準はありません。ですから、愛のために殺人をしたと言う人をも受け入れるのです。つまりヒトラーをも愛で受け入れるのです。過ちを許すことは愛ですが、全て受け入れるのは愛ではないのです。

私たちはよく「愛」という言葉を使いますが、果たしてどれだけ愛を理解しているでしょうか。もちろん私もまだまだ理解を深め、実践できる人間にならなければなりませんが、ここで聖書の言う愛を紹介したいと思います。

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たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。  1 コリント信徒への手紙  13.1-8

これを書いたパウロはキリスト教の宣教に最も貢献した人物の1人です。パウロはどんなに素晴らしい奇跡や施しをしてもそれが愛から来るものではなければその行為は「空っぽ」だと言っています。

恋愛においても同じです。どんなに高価なプレゼントをあげても、相手の話に耳を傾けてもそれが愛からくる行為でなければ何の意味も無いということです。相手の肉体と自分の快楽を埋める行為は利己心であり、そこに忍耐はないのです。

実は日本人が語る「愛」とはキリスト教から来ている

愛というと「相手を思いやる気持ち」というような利他の心として表現されたりします。上でパウロが語っていることでもあります。

しかし、一昔前、日本が仏教の影響を強く受けていた時代、江戸時代においては仏教的な「愛」で理解されていました。仏教的な愛とは「異性、お金、名声など」への執着心の意味と言われています。つまり、愛とは欲望の1つ。仏教の最終ゴールとは欲を滅すること。つまり、簡単に言うと仏教的な「愛」とは消し去るべき忌まわしいものだったのです。

明治時代に宣教師が「神は愛なり」と語ったところ日本人は笑い飛ばしたと言われています。なぜなら当時の日本人からすれば「神は欲の塊なり」と言っているように聞こえたからです。そしていつしかキリスト教的な「愛」の理解が日本人に浸透していったのです。つまり今私たちが語っている愛とはキリスト教的な愛を語っているのです。

こんなところにもキリストの教えを見ることができます。

人間の価値は性行為で決まるものではない

私はこんな映画を見たことがあります。

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【作品解説】
昔に比べ女性の地位が向上したといわれている現代。
それでもなお女性が“性”について赤裸々に語ることは、いまだにためらわれ、性を謳歌していると公言する女たちは「ビッチ」の烙印を押されてしまい、バッシングされるという現実がある。現代日本に生きる女性たちは”性”に対してどう向き合い、生きているのか。女たちの“性”が、本当に解放される時はやってくるのか。 吉本興業より

世の中で起きていることを理解するために観たのですが、酷いものでした。中でも酷かったのは瀬戸内寂聴のインタビュー。彼女自身こそ性的に堕落した人生を送ってきており、あろうことに性に悩む女性にもっと性に解放的になるように促していたのです。また、「人の悪口を言いながら食べる飯はうまい」などと尼さんとしてあるまじき発言を堂々としていました。

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人生行き詰まった時に聞きたい、瀬戸内寂聴の涙が出てくる名言集

はっきり言ってこんな名言集など読んでも人生の行き詰まりは取れないでしょう。

天台宗にも密教があり、開祖である最澄は密教を日本に持ち込んだ悪名高き空海とも繋がりがありますから、納得といえば納得でしたが。密教とは「秘密仏教」であり、釈迦とは全く関係のない性的に淫乱な儀式を行う悪魔教です。

〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

<閲覧注意>チベットは悪魔崇拝の聖地です。

こうして解放を促しているようで、実は女性に劣等感を与えているのです。性行為で人間の価値が決まるわけではありません。しかし、瀬戸内寂聴氏は逆のことを言っているのです。よくメディアでは善人のように紹介されますが、人々を堕落に導くサタニストとしか考えられません。性を人の堕落に使うのはサタニストの常套手段なのです。

個人的な意見を言うならばやはり女性は性に対し慎ましくあって欲しいと考えます。それこそが女性の美しさだと思うのです。かと言って男性が開放的になって良いかといえばそうではなく、男は一途に一人の女性を愛すべきだと考えます。

最後に

恋愛について悩んでいる方はどうか性的なことばかりに捕われないで下さい。性行為であなたの人間的価値は決まりません。むしろ経験人数が少ないことを誇りに思って下さい。それは神様から喜ばれることです。どうか一生支え合える心からのパートナーを探して下さい。

経験人数で私たちの人生は豊かになりません。むしろ心は渇くばかりです。一球入魂の気持ちでパートナーを探して下さい。でも焦って探す必要はありません。

今はバツイチぐらいは当たり前という風潮がありますが、それは良いことではありません。もっと結婚に対する思いを燃やして下さい。

どうか未婚の若い男女に性行為を勧めないで下さい。それはできちゃった婚のリスクを高めることに繋がります。映画にもいつの間にかR指定がされ、暴力に加え、卑猥な映像も当り前のように流れています。そういったものから距離を置いて下さい。世の中が性的に堕落してきていることは明らかで、誘惑もますます激しくなりますからそれを避けることは大変なことではあります。

しかし、神様は私たちがどんなに淫らな行いを繰り返し、神様からの男女のギフトを乱用しようとも、悔い改め、神様のもとへ帰ろうと決心するならば神様は喜んで私たちを受け入れ、真実を見せてくれるでしょう。

悪魔から来る「愛」は人生をめちゃくちゃにします。
本物の神様から来る「愛」は人生を豊かにします。

もし私にパートナーができるならば、喜んでハネムーンを待ちたいと思いますね。

■中山■

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ABOUTこの記事をかいた人

菜食の元パーソナルトレーナー。 2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。