聖書がただの本ではないという証拠。科学が聖書に近づいている証拠。聖書は神によって書かれたという証拠。

 

日本人にはまだまだ馴染みの少ない聖書ですが、私も最初、聖書を手に取るまでは恐怖を抱いていました。というのは、変な教えが自分の頭に入ってしまうのではないか?自分もキリスト教を信じるようになったら周りから変になったと思われないか?そんなふうに思っていたからです。(というか事実、キリストを信じるようになってしまいましたが笑!)

今回はそんな聖書についての驚くべき事実をお伝えしたいと思います。

どうして聖書に興味を持ったのか?

世の中の闇が見えはじめ、陰謀論をいろいろと調べていたときです。Facebookで友達が「天皇家は悪魔崇拝者である」というあるブロガーの記事をシェアしていたのがキッカケでした。

古代エジプトの太陽信仰=悪魔崇拝が、現在の日本の天皇家へと流れ着き、天皇家を最大級の財閥にするまで。
天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。

ものすごく興味を引かれました。なぜかというと私は天皇というものがよくわからなかったからです。どうして国民が天皇を崇めるのか?全く理解できませんでした。おそらく私の世代、それ以降の若い世代の人たちは天皇の存在意義など理解していない人がほとんどだと思います。「偉い人でしょ?」という理解はあったとしても「神様」とまでは到底思っていないはずです。だから、そんな天皇家が悪魔崇拝者と書かれていて妙に納得したのです。

例えば以下の画像を見比べてみて下さい。

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画像はwikiこちらより

この16花弁の菊の紋章は皇室のシンボルであり、天皇を神とする神道のシンボルです。私たちのパスポートにもこの菊の紋章が描かれています。で、実は一番左の画像は日本のものではなく古代エジプトの遺跡から発掘されたものなのです。

古代エジプトは太陽崇拝(悪魔崇拝)の国であり、この菊のように見える紋章は実は菊ではなく太陽なのです。で、日本はたまたま菊を用いて偶然にも16花弁を用いたらここまでエジプトの太陽シンボルと似てしまったということです。なんという偶然でしょうか。

で、このブロガー(クリスチャン)の方からは今も勉強させてもらっていますが、この方が陰謀を暴けたのは聖書のお陰だと言っていたのです。それで、聖書に興味を持った、それがキッカケです。ちなみにこの方の聖書解釈は私のそれとは異なります。では、本題に入りたいと思います。

聖書は人類最古の本

聖書は紀元前1500年前に書かれて、完成までに約1600年の月日を経ています。つまり、今から約3500年もの昔に書かれた書物ということです。そんな昔の本でありながら今も世界中の人に読まれて続けている本など存在するでしょうか?もうこの時点でただの本ではないのです。

しかも、驚くべきはその統一性なのです。

まず聖書は、その66巻が約40人の人々の手を通して記され、1600年以上の長い歳月をかけて執筆されたにもかかわらず、驚くほどの調和と統一性を保っています。
とくに聖書の初めの5巻は、世界で最も古い書物です。儒教の「大学」が紀元前5世紀に記され、ヒンズー教のベーダの中の「知識の書」も紀元前5世紀、仏教の経典「三蔵」は紀元前1世紀、イスラム教の「コーラン」が紀元7世紀、神道の「古事記」「日本書紀」が8世紀に記されたのに比べ、聖書の初めの5巻は、それらよりずっと古く紀元前15世紀に記されました。
そして聖書66巻は、紀元前15世紀から紀元1世紀にわたる1600年間にわたって記されたのです。聖書の全巻は、日本で紀元3世紀に邪馬台国ができる以前に、すでに完成していました。
聖書の中には、歴史あり、律法あり、詩歌あり、預言ありで、ひじょうに多様です。しかし、1つのテーマによって貫かれ、均衡と統一がとれています。 キリスト教読み物サイトより

(こちらのサイトの著者の久保氏の著書は私もいくつも読み、勉強していますが、とてもわかりやすくおススメです)

他の宗教の書物と比べれば聖書がただならぬ本ということは理解できるかと思います。そして約40人の手によって書かれているという点も注目すべきです。なぜなら、仏教と比べるとその意味が理解できると思います。

これは、たとえば仏教の経典などと比べると、ひじょうに対照的です。仏教の各宗派は、宗派ごとに異なる経典を信奉しています。たとえば日蓮宗、浄土真宗、臨済宗、阿含宗……など、みなそれぞれに経典が違うわけです。それは、各経典の内容がひじょうに異なるため、経典ごとに宗派が生まれることが可能だからです。
しかし、聖書の各巻は全く一つの教えによって貫かれており、66巻は互いに補足し合って、全巻で完全なものを形成しています。このようなことができたのは、唯一の真の神が聖書の記者を導き、監督してくださったから、と考えるのが最も理にかなっていると言えるでしょう。 キリスト教読み物サイトより

また、世界で最も多くの言語に翻訳されており、その数は約2400以上の言語にとも言われています。また、最も迫害を受けた書物という側面もあります。

とくに3世紀のローマにおいてのクリスチャン迫害は残虐極まりなく、徹底したものでした。なぜかといえば、迫害していたのが悪魔崇拝者だったからです。真実から人々を遠ざけるためだったのです。しかし、迫害すればするほどキリスト教が広がっていったのでした。これは神様から守られてきたといっても過言ではないでしょう。

では、そんな聖書ですが、どんな内容が書かれているのか簡単に説明してみたいと思います。

決まり事ばかりのかた苦しい本ではない

私が聖書を読む前に勝手に抱いていた聖書のイメージは「ルールブック」でした。こうしなさい、こうしてはいけない、こういうときはこうしさない、なぜならこうだから…そんな掟が延々と書かれているものだと思っていました。

しかし、読み始めてあっけにとられてしまいました。というのは読んでみると「小説のように彩り豊かな本」のように思えたからです。もちろん掟も書かれていますが「面白い!」これが第一印象でした。ただ、3500年も昔の本であるため、表現方法や時代背景も異なるため、難解な箇所もたくさんあります。しかし、学べば学ぶほど理解も深まり、これは人間が書ける本ではない、そう思うようになりました。

聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」という大きく2つのパートに分かれています。私の言葉でまとめてみると

■旧約聖書
天地創造、アダムとエバの失楽園、ノアの大洪水、エジプト脱出の話、などの有名な話が載っています。人間やイスラエルの起源が記された歴史書という面が強く、その歴史の中で神から与えられた掟や生き方が記されています。

そして、アダムによって人類に入り込んだ罪から人類を救うメシア(救う主)が現れることを預言した預言書、神を賛美する詩、知恵者の金言集、など非常に多様な内容となっています。

■新約聖書
旧約とは古い契約、新約とは新しい契約という意味です。イエス・キリストは古い契約を新しいものに刷新し、旧約聖書で預言されていたメシアとして人類を罪から救うために神から遣わされました。有名な福音書はイエスの伝記のようにもとれますが、伝記というよりもイエスと共に生きた人々の命をもかけた証言の記録です。また、キリスト教の布教に大きな貢献をした元キリスト迫害者のエリートであるパウロによる手紙や使徒による手紙、有名なものには世界の終わりを預言したヨハネの黙示録があります。

簡単に言うと、旧約聖書はイエスについて書かれたもので、新約聖書はイエス・キリストによって人類を救おうとしている神の教え、救いの計画について書かれたものと言えるかもしれません。

ちなみに旧約聖書を教典としているのがユダヤ教です。ユダヤ教徒はイエスをメシアとしては受け入れず、1人の預言者として見ています。なので正確には異なる宗教と言えます。また旧約聖書はイスラム教の教典の1つでもあります。

聖書が人間に書ける本ではないという証拠

以前、記事でノアの大洪水について少し触れました。

人間はもともと菜食だった?肉食動物もいなかった?聖書から肉食菜食を考える。

神様はひどく堕落した世界からあらゆる生き物をぬぐい去ろうと大洪水を起こすのですが、唯一神に認められたノアの家族は神に指示された箱船を作り、洪水を免れたという話です。

で、この箱船について非常に驚くべき話があります。

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画像はこちらより

「あなたは…箱船を造りなさい。箱船の長さは300キュビト(1キュビト=約44cm)。その幅は50キュビト。その高さは30キュビト」 創世記6.14-15

神はノアにこう伝えたのでした。つまりノアの箱船の長さ、幅、高さの比は300:50:30だったのです。長さは幅の6倍、高さの10倍だったのです。サッカーコートよりも長く、幅は半分ほど短い、マンションだと3,4階だての高さの大きさでしょうか。

で、この巨大タンカーのような箱船ですが、研究を重ねた結果、現在最も理想的と言われるタンカーの比率が実はノアの箱船と全く同じなのです。

じつは、NTTの元会長であった真藤氏は、NTTに入る前には造船会社の社長をしていました。氏は大型船の理想的な形を研究するよう、研究チームに命じました。
その結果わかったことは、タンカー級の大型船にとって最も高い安定性と強度を持つ形は、長さ・幅・高さの比率が三〇・五・三の場合である、ということでした。
以来、造船界では、この比率は「真藤比」とか「黄金比」と呼ばれ、タンカー級の大型船の主流となったのです。
 この比率は、ノアの箱舟の比率と同じなのです。ノアは、このように理想的な船を、ろくな造船技術もない時代につくりました。そこにはまさに、神の導きがあったとしか考えられません。


ノアの箱舟は長さ・幅・高さの比率が30:5:3であり、最も高い安定性と強度を持つ理想的な形だった。

キリスト教読み物サイト 大洪水による環境の激変より

ノアの洪水が起きたと言われるのが今から約4000年以上前のことです。
つまり、これは科学や技術が聖書に近づいているという動かぬ証拠の1つです。ただの妄想で物語として洪水のストーリーを書いたとしてこんな偶然が起き得るでしょうか。

他にも数字にも驚くべき記述が見られます。

天地を創造したのが神様であるならば、数字を創ったのも神様です。
数秘術というものが存在しますが、ここでゲマトリアというものを紹介したいと思います。

ゲマトリア (גימטריה) はヘブライ語およびヘブライ文字の数秘術であり、聖書の言葉に隠された意味を読み解く神秘主義思想カバラの一部をなす。 ゲマトリア – Wikipedia

ゲマトリアとはアルファベットや文字に数字を割り当てたもので、例えばギリシャ語のアルファαは1、ベータβは2、というようなものです。

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(画像はキリスト教読み物サイト 終末の独裁者「獣」とは?より)

ちなみに、このヘブル語の6のヴァヴを見てもらうとわかるように、これを3つ並べると爪で引っ掻いたようなあのエナジードリンクと同じ絵になります。つまり666,獣の数字になります。

さて、この聖書の中で非常に興味深いのが153という数字です。

新約聖書のヨハネの福音書に、イエスの復活後に弟子たちと漁に出るシーンがあります。そこで網をかけると「153匹」の魚が釣れたのです。

シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 ヨハネの福音書 21.11

普通に考えて、たくさん釣れた魚をいちいち数えるでしょうか?何か意味がなければわざわざ数字を明記する必要はなく、たくさん釣れた、もしくは100匹以上は釣れた、などの表現でいいはずです。それを一の位まではっきりと書いているのです。しかし、これをゲマトリアで考えるとそこに隠された意味がみえてくるのです。

キリスト教では「魚」は「神を信じて救われる人々」を象徴していると言われます。つまり「神の子たち」と言えるのです。で、この「神の子たち」のヘブル語のゲマトリアが153なのです。

また、魚(ギリシャ語:イクスース)は1224=153×8、網(ギリシャ語:トーディクトゥオン)も153×8なのです。

つまり、釣り上げたのは単なる魚だけでなく、イエスの弟子たちは人々を救う漁師になるということを象徴していたのです。そうです、イエスが初めて弟子に会ったときイエスはこう言いました。

「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」 マタイ4.19

たくさんの魚がとれたのに網は破れていなかったということから、今後どんどんクリスチャンは増えていくことが予想されます。

このゲマトリアをみても、そこに神の業をみることができます。こういった視点からみても人間技とは思えないのが聖書なのです。ちなみに、先に述べたノアの箱船ですが、その容積は300×50×30でした。実際に計算すると450,000という数字になります。これは45×10000とも表せます。そしてこの45という数字に相当する言葉に「贖い、解放」があります。つまり、ノアの箱船は大洪水からの贖い(救い)だったということです。これってすごくないでしょうか。

預言が的中する確率とイエスキリスト

旧約聖書はイエスについて書かれたものであり、クリスチャンはイエスキリストをメシアとして信じます。

で、旧約聖書の預言者の言葉を見ると、いくつもの預言がイエスによって成就していることがわかります。例えばイエスがベツレヘムから生まれる、ロバにのってエルサレムに入る、槍で脇腹を突かれる、十字架上で骨を折られない、イエスの服がくじ引きにされる、などなど。

・創世記3章15節[1]は原福音とも呼ばれる
「女の子孫」という言葉は、原文(ヘブル語)で単数形であり、キリストを示すと解釈されてきた。[2] ・第二サムエル7章12~16節
ダビデに語られた主のことば。ダビデの子ソロモンによる王権の確立も含むが、「王座をとこしえに堅く立てる」とは、究極的にキリストによる王権を指す。
・詩篇22篇
詩篇にはメシア詩篇と呼ばれる詩篇があるが、この詩篇もキリストの十字架を預言している。十字架上のキリストの最後の7つの言葉に関連がある。[3] ・イザヤ書7章14節
キリストが処女から生まれることを預言。
・イザヤ書9章6節
キリストの誕生の預言。
・イザヤ書11章1~5節、10節
キリストが「エッサイの根株」つまり、エッサイの系列、ダビデの子孫から生まれ、どのような者となるか、ということが預言されている。(エッサイはダビデの父)
・イザヤ書53章
キリストの受難を預言した箇所。[4] ・エレミヤ書23章5,6節[5] バビロン捕囚の時代(BC.586~)に、ダビデの子孫からキリストが生まれることを預言。
・ミカ書5章2節[6]
キリストが生まれる場所を預言。 wikiより

または以下のサイトに詳しく書かれています。

予言されたキリストのご生涯
旧約聖書のどこにキリストの来られることを預言していますか?

たまたま偶然が重なって預言がイエスキリストによって成就したと思う方もいるかもしれませんが、注目すべきはその的中率です。

  • 確かな預言のみことば 

イエスが弟子の一人に裏切られ十字架の死に至り、葬られるまでの預言が一人の人のうえに偶然に成就する確率を、それぞれの詳細な預言についての要素を考慮して統計的に的中する可能性を計算すると、複合統計的中率は、控えめな見積り計算をしても10の49乗分の1の確率になると言われています。(“The Gospel we preach” Study Noteチャック・スミスより引用)

こちらの確かな預言のみことばより引用

確率を考えると途方もない数字です。
例え、自らがメシアになろうと預言書に書かれていることを成就させようと思ってもそう簡単にできるものではありません。しかも、向かう先はハッピーエンドとは真逆の事柄なのです。また、預言の中には到底1人の力ではどうにもならないことも書かれています。

例えば、イエスの12弟子の1人のユダはユダヤ人たちに銀貨30枚の対価でイエスを裏切ります。

-ユダの裏切り

イエスの弟子の一人イスカリオテのユダが銀貨三十枚で祭司長、長老に売りイエスを裏切ることを、イエスがこの世に来られる約五百年前にゼカリヤの預言に詳細に述べられています。
「私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」(ゼカリア書11章12,13)と、ゼカリヤは述べています。

中略

ユダはイエスを売った後でこのことを後悔し、その銀貨を返そうとしましたが、すでに取り返しのつかないことを祭司長たちから宣告され、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り外に出て行って、首をつって死にました。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言い、相談の結果、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にし、その畑が血の畑と呼ばれるようになりました。(マタイ福音書27章3-8参照)

ここでも、イエスが銀貨三十枚で売られ、その銀貨三十枚が墓場としてしか利用できない陶器師の畑を買う値段となるというゼカリヤの預言が成就していることがわかります。
さらに、イエスが友と呼んだ弟子のユダの裏切り(マタイ福音書26章50参照)について、紀元前千年頃すでに「 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(詩篇41篇8)と、パンと杯をイエスと共にした弟子の一人によって裏切られることが預言されています。

こちらの確かな預言のみことばより

というように、預言がたまたまイエスに偶然によって重なっただけ、と一言で済ませるには非常に無理のある話なのです。

 

聖書に書かれていることが今起きている

なら、今現在はどうなのか?聖書の話が真実ならば、今私たちが生きているこの世界でも聖書に書かれていることが起きているはずだ、そう思う方もいらっしゃるかもしれません。

そうなのです、今現在起きているのです。イエスがまだ地上にいた頃はイエスという守護者がいました。しかし、イエスが復活し、天に昇ることで、神様が別の弁護者を送ってくれると言いました。この弁護者というのが「聖霊」です。

「はっきり言っておく。わたし(注:イエス)を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 ヨハネ 14.12-16

そして、イエスが天に上ったことで、弁護者である「聖霊」が注がれたのです。使徒たちは聖霊に満たされ、力を得ました。異なる言語を語り、そこに居合わせた様々な国籍からなる人々が自分たちの国の言葉を喋っている使徒たちの姿をみて驚いたとされています。これが有名なペンテコステの話です。

そして、この聖霊の賜物はすべての人に約束されたもので、預言者ヨエルを通して言われていたことなのだとペトロが言いました。

「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 使徒言行録 2.16-21

前起きが長くなりましたが、以下の動画をみて頂ければクリスチャンに聖霊が下り、イエスが行ったような奇跡が現実に起きているということがご理解できるかと思います。

 

もし聖書に書かれていることが真実ならば…

今回は色々な視点から聖書という書物を考察してきましたが、聖書はヨハネの黙示録というこの世界の終わりについても預言しています。

そこには非常に苦しいときが来ることが書かれています。獣と呼ばれる独裁者が現れ、特にクリスチャンへの迫害がエスカレートします。世に悪が満ちます。それでも忍耐するものは救われると書かれています。

クリスチャンへの迫害がひどくなることは明記されています。では、それでも私がクリスチャンの道を歩むのはなぜか。それは聖書に書かれていることが真実であると信じているからです。

もし、聖書に書かれていることが真実であるならば、私たちはいつの日か、その日は近いかもしれませんが、神の裁きを受けることになります。そこでは私たちの人生のハイライトが1つの映画のように、Facebookのタイムラインのように、そこにあなたのお気に入りの写真だけでなく、あなたの隠したい過去まですべて洗いざらいに映し出されます。そしてたった1人で神の前に立つのです。そのとき、あなたは自信をもって自分が地獄ではなく天の国に行けるという思えるか。

私は宗教という言葉はあまり使いたくありません。なぜなら、聖書に書かれていることは真実だと思うからです。

私はまだクリスチャンとして歩み始めたばかりですが、これからも学び、行動し、お伝えしていければと思います。また、日本人はまだ聖書に馴染みがありませんが、私はそれがチャンスであり、大きなアドバンテージだと思っています。なぜなら、変な先入観が少ないからです。キリスト教の伝統に浸かって育ってきた欧米人の人たちはその固定観念から抜けるのに非常に苦労しているのです。

そして、何よりも私が強調したいのは、日本人のルーツが古代イスラエルあるということです。つまり、日本人のルーツは聖書の中にあるのです。それはまた別の機会に書きたいと思います。

■中山■

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ABOUTこの記事をかいた人

菜食の元パーソナルトレーナー。 2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。