何を食べるかも大切だが、それより大切なのはどれだけ食べるか「量」を考えること。つまり、それは自分の心と向き合うこと。

前回の記事では肉食菜食について聖書の記述から個人的考察を踏まえて考えました。

人間はもともと菜食だった?肉食動物もいなかった?聖書から肉食菜食を考える。

記事の最後に少し触れましたが、何を食べるかよりもまず考えるべきは「量」であり、「むさぼる心」が問題であると書きました。今回はここをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

人を汚すものは口に入れるものより、口から出るもの

イエスが生きていた時代、ユダヤ人たちはとても厳格でありとても真面目な人たちでした。しかし、守るべき掟がたくさんあり、それが逆に自分たちを縛り、律法という掟の本質を見失っていました。つまり、ユダヤ人が「あれもダメ、これもダメ、あーしてはいけない、こーしてはいけない」と言ってがんじがらめになっている中、イエスは「こうしなさい」とシンプルに神の掟の本質を説いていました。

:イエスもユダヤ人です。俗にいうイスラエル人をユダヤ人といい、またユダヤ教を信じる人たちであり、キリスト教も同じ神様を崇めています。イエスはその神から遣わされた救世主、神の御子(つまり神様の一部)であり、ユダヤ教(旧約聖書の教え)を完成させ、人々を罪から救い福音を述べ伝える(新約聖書の教え)ために世に来たのです。簡単に言うと、同じ神を崇めているという点で兄弟ではありますが、ユダヤ教徒はイエスを神からの救世主とは認めず、キリスト教徒はイエスを救世主と信じる点で異なる宗教と言えます。当時のユダヤ人はイエスを受け入れず、嫌い、殺そうと殺意を抱いていました。現在のユダヤ人もイエスはただの善人、または予言者の1人として考えている人も多いようです。

以下の話はユダヤ人は食事の前に手を洗うという掟を守っていないイエスたちを非難したときの話です。

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派(注:ユダヤ教の派閥の1つで特に偽善的でありイエスから特に非難されていた)の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存知ですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが「そのたとえを説明して下さい」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」 マタイ15.10-20

つまり、ユダヤ人たちは「食事の前に手を洗う」という外側を清めることに捕われ、本質的な自分の内側を清めることをないがしろにしていたのです。ですから、イエスはそんなユダヤ人たちを「盲人の道案内をする盲人」と例えていたのです。

今現在は2000年前の時代背景とは全く異なり、毒物のようなもの食べ物も出回ってますから、何を食べるかの注意はもちろん必要だと思います。しかし、イエスが伝えたかったのは人を汚すのは人の内側にあるもの、心こそ洗うべきものだと私たちに伝えたかったのです。

むさぼる心があれば結果的に暴飲暴食したり、酒に飲まれたりと自分の体も汚し、太らせることになります。そして他人をも汚す可能性があります。何を食べるかも大切ですが、まずは心をキレイにすることに目を向ける必要があるということです。むさぼりがなくなれば自然と体もキレイになっていくということです。言って見ればむさぼりを制する=量を制することです。心が変わればおのずと質にも目が向いて来ると思います。

何を食べようかと必要以上に思い悩まない

食べることは人生において重要なことだと思います。食べるのが好きという方も多いと思います。もちろん私もその1人です。友人や家族、大切な人との食事の時間はとても大切なものだと思います。楽しむための食事という側面も大切ですが、やはりまず第一は生きるために食べるということであり、そして何のために生きるのか?これを考えることが大切ではないでしょうか。

あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 ルカ12.29-31

心が貪欲になり、心の肥満が起こるとついつい必要ないことにも余計に思い悩んでしまいがちです。何を着ようか、何を食べようか、何を飲もうか、そんなことに心を忙しくしてしまいがちです。しかし、それよりも大切なことがあるとイエスは説きます。

健康のために何を食べるかはとても大切なことですが、今は情報がありすぎてそれによって頭を悩ませている人も少なくありません。しかし、食べるために仕事もしない空のカラスでさえも神様は養って下さるのであれば、カラスよりも価値のある私たち人間が何を食べようかと自分を苦しめるほど心を忙しくして思い悩む必要はないということです。

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私個人としては自分のための食事は本当に適当です。ご飯と醤油、以上!パンとオリーブオイルと塩、以上!果物だけ、以上!そんなときがほとんです。人に作る時は別ですが。質については、出来るだけオーガニックのものを選ぶようにしています。ただあれこれ買い物リストを作って食べ物に思い悩むことはしていません。でもそれでも体も衰えず、元気に生きています。

つまり、ここで私が伝えたいのは、現在の私たちはどうかということです。食べることに必要以上に心を悩ませていないでしょうか?食べることばかり考えていないでしょうか?ダイエットがどうのこうので必要以上に細かい知識を伝えたり、栄養学の勉強をしていないでしょうか?肉も食べず、タンパク質もほとんど意識せず、豪華な食事も生きるためには必要ではないならば、はっきり言って栄養学なども必要無く、ダイエットに思い悩むだけストレスです。答えは単純明快で、むさぼる心と向き合うことであり、それは質よりも量をコントロールするということです。むさぼりと向き合えば体は自然と変化してくるでしょう。

心を洗うおうと努める→食べる量が変わる→体は自然とキレイになっていくでしょう。それによって質にも目を向けることができるということです。

食べ物の議論について思う事

最後に話は少し逸れますが、この話にも少し触れたいと思います。
食べ物についての議論はネット上であふれていますし、会話の中でもよく話題になるトピックです。もちろん身を守るという意味で食事の議論はとても大切だと思います。また、私はVEGANとして生活してきましたが、中には動物愛護の気持ちが強く、過激な発言で攻撃する人も多くみかけてきました。肉を食べないことは動物にも環境にも人にも優しい行為ですが、そのような発言やSNSの投稿を見るとせっかく良いことをしているのに台無しにしているように思えました。

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せっかく良いことをしているのに、良い事が逆にケンカの種になっている現状を見ると、残念な気持ちになってしまいます。ですから、良い事は良い結果に繋がるよう私たちは注意し、お互いを受け入れることが大切だと思います。

まとめ

まずは心、内側をきれいにするよう自分と向き合う。むさぼりと向き合う。それは言い換えれば量を制すること。それによって体に変化が起き、おのずと質にも目がいくようになる。どうして食べ過ぎてしまうのか?どうしてむさぼってしまうのか?もし自分が食べている姿を誰かに見られたとして、恥ずかしいと思う気持ちがあるならば、それは一度自分について考えてみる機会ではないでしょうか。

私自身もまだまだですが、もっともっと自分の内側をフォーカスし、きれいにしていくことに努めていきたいと思います。

■中山■

 

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ABOUTこの記事をかいた人

菜食の元パーソナルトレーナー。 2016年に洗礼(バプテスマ)を受け、クリスチャンになる。食の探求から陰謀論の世界に入り、真実を追い求める。そして真実は聖書の中にあると確信。食や運動などトレーナーからの視点とクリスチャンの視点を合わせた情報発信を行う。